知識の冒険は楽しくて仕方ない。
今はインターネットがあるので、やり方によっては見聞を広めることはたやすいが、やはり、深く入り込むには読書が一番だ。
九州の立花宗茂は、柳川の領主として関ヶ原西軍に与して改易、その後、家康や秀忠に認められふたたび柳川藩主に返り咲く希有の例である。
本人は本多忠勝と比肩されるほどの武将、家臣も勇猛で、戦場ではおそれられる軍団だったと。
四国の長宗我部元親も、一両具足で、一度は四国全土を支配するほどの大武将。
信長や秀吉に野望が阻まれ、土佐一国の領主におさまるが、毛利元就にも匹敵する偉業をなしている。
後継の盛親は、関ヶ原後に領地没収、大坂夏の陣で敗戦後、斬首される。
信長・秀吉・家康に偏重されがちな戦国史、日本史であるが、北条早雲や斎藤道三も凄い武将だ。
立花宗茂も長宗我部元親も、またすばらしい人物である。
毎週金曜日発売の「週刊漫画TIMES」。
非常にマイナーで、知らない人も多いだろうが、結構はまるマンガが多い。
ただ、気に入らないのは、超優れた主人公が、そのままではすばらしい実績を出すはずなのに、理不尽な妨害によって、サクセスストーリーを邪魔されるという設定が、鼻につくこと。
今なら、蔵の宿、しぶとい男、女傑と、鬱陶しい限りだ。
旅館、サラリーマン、歌手と、それぞれ才能があるもの同志が対決しても、勝つかという世界のはずなのに、お互いを磨く好敵手が皆無で、やたらと安直に妨害工作をされたりする。
所詮、マイナーな漫画雑誌編集者の差し金か?
編集長が偏向しているのか、間違ったマーケティングで「いじめ路線」を貫いているのか。
それでも毎週買い続けている。
昔は、○暴株式会社とか、女帝とか、最高だったからね。
漫画と言えば週刊漫画TIMESと週漫.JP
明日から買うの止めよう。
おお、昔のドメイン shuman.jp が、誰かに取得されている…
昨日(2004-05-29)夜、はじめの一歩68巻そろいを落札。
しかも出品者はわが地元の方で、今日午前中に直接取引成立。
50巻までは、喫茶店&ラーメン屋で合わせて2度読みしていたので、51巻目から読み始めさきほど68巻を読破!
いやぁ、おもしろいね。
幕之内一歩(主人公)だけでなく、脇役のリング内外の戦いもドラマチックで、ほんと、読者もこのマンガにはデンプシー・ロールを食らってしまいそうだ。
やっぱ、e-コマースサイトも、期待通り、期待以上のエクスタシーを与えることができなければ、この先ビジネスを続けていくことは困難かも。
動線を、はじめの一歩のように、息つく暇のないくらい、次は次はとクリックしてもらわなきゃ、ね!?
はじめの一歩
なお、今はブックオフに売り払ってしまった。
他の漫画と一緒に…
理由は、クラシックのCDが占領したから。
巨匠梶原一騎原作のプロレスアニメである。
知る人ぞ知る、これほど原作から遠く離れて完成度の高いものは未だ見たことがない。
さて秀逸なのは、虎の穴の最強レスラーである、キング・タイガー、ビッグ・タイガー、ブラック・タイガー。
さらに、ミラクル3あらためタイガー・ザ・グレイト。
この後者は、今まで「タイガー・ザ・グレート」とばかり思っていたが、平成虎の穴の情報によると、「タイガー・ザ・グレイト」だそうだ。知らんかった…
とにかく、この4人の虎の穴幹部レスラーによる、タイガーマスクこと伊達直人ほか裏切り者のリング上の処刑譚は、原作にはまったく含まれておらず、しかも、この箇所が途轍もなくおもしろい。
聞くところによると、色々な利権がからみ、なかなか全巻ビデオ化されなかったのだが、2003年に待望の全巻DVD化されたらしい。
ところが一回こっきりで、Amazonでさえユーズドが高値で売られている。
このあたり、人気もあるからだろうが、発売する方の姿勢にも問題がありそうだ。
最後に、新日の初代タイガーマスクも原作を超えていたね。
それから、ヤフオクで全セットをゲット!
息子と二回見た。
映像は古いので辛いものがあるが、やはり名作と再認識。
すばらしい!
森川ジョージのコミックス。
非常におもしろい、はまってしまう。
これをそろえている喫茶店でモーニングを食う、または、ラーメン屋で昼食。
まずいものを食わせるわけではないが、あきらかにマンガ目当ては言うまでもない。
ボクシングマンガにはまったのは、明日のジョー以来。
強力なライバルに苦戦しながらも、最後は勝つ、この設定は同じだが、ジョーには悲壮感が漂う。
ライバル(力石徹)の死と、真っ白なラストシーンは、鮮烈で今も頭に刷り込まれている。
もちろん、明日のジョーを全巻そろえていることは言うまでもない。
さて、一歩の方は、いじめられっ子の大変身、リング上の大逆転、因縁というか宿命というか、ライバルと繰り広げるドラマは、読むものを引き込む。
ところで、例の喫茶店もラーメン屋も、50巻までしかない。というかもう読み終わって、2回目を読んでいたりする。
今は、Yahoo!オークションで落札を待つ身である。
はじめの一歩
藤原定家は、その美しさの追求において、イタリア人の映画監督であるルキノ・ヴィスコンティとならぶわが愛着の深い芸術家である。
ともに貴族。そして時代の転換期にうごめき、滅びの美学とも言える、様式美を構築している。
ヴィスコンティは、その出自とは裏腹に、マルクス主義者だったそうな。一時期はイタリア共産党員でもあった。
この映画監督のドイツ物が、非常に美しく、さらに思想性が高く、今の映画には見られない孤高の輝きを放っている。
もっとも好きなものは、最後の王様 ルートヴィヒ二世をモデルにした『ルートヴィヒ』。
俗物に描かれパトロンから金を吸い取って時代の頂点に立ったリヒャルト・ヴァーグナーとの対比。
本物の芸術家以上に芸術家であった王が、時代とともに雨下でのたれ死にする末路が悲しい。
トーマス・マン原作で、グスタフ・マーラーをモデルとした『ベニスに死す』。
むろん、マーラーの音楽(交響曲第5番第4楽章アダージェット)が効果的に使われている。
上記二作品を含むドイツ三部作と言われる『地獄に堕ちた勇者ども』は、三島由紀夫も絶賛したらしい。
ただし、邦題がよろしくない。もっとも相応しいのは『神々の黄昏』である。
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藤原定家は、アントン・ブルックナーとならぶ私が愛好する芸術家である。
定家の言葉至上主義と現実無視は、ブルックナーの絶対音楽追求による巨大交響曲の作曲と通じるものがある(と私は思う)。
文学や特に詩は、言葉で作り上げる芸術である。
音楽も、標題や思想のメッセージもあるだろうが、やはり音で作り上げる芸術である。
ブルックナーでは、ドイツ精神やら、神との交感やら、得体のしれない解釈がつけられることがあるが、一度、何らかの芸術作品をつくってみると、分かるはずだ。
なにがしかの自己表現であり、他方、それぞれの芸術はそれぞれの規格があるということである。
しかも、その芸術に長けてくればくるほど、その規格こそが創造の道筋となり、規格にしたがい、規格を破ろうとするものである。
ブルックナーが作品を神に献げたという説は、なぜミサ曲などの宗教作品よりも、交響曲に熱中したのか、答えることができないだろう。
交響曲第9番ニ短調、つづいて第8番ハ短調をもっとも好んでいる。CDはどちらも100種類以上所有しているから、立派な「ブルオタ」と言えるだろう(笑)
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藤原定家は、日本人が誇るべき偉大な芸術家である。
彼が残した、つまり彼の筆になる日本文学の古典も数多い。
貴族であり、すでに政権は鎌倉武士に移行していたが、彼はそれなりの官位を昇りながら、芸術のドンとして生涯を終えた。
後世名高い『小倉百人一首』も、定家撰ということになっている。
これに塚本邦雄が『新撰 小倉百人一首』を上梓しているから、楽しくてたまらない。
塚本邦雄には、藤原定家の芸術を教えられただけではない。
次は、斎藤茂吉である。
しかし、塚本経由の茂吉(赤光やあらたまなど)の前に、斎藤茂吉著『万葉秀歌』で新古今以外の和歌の美世界を堪能させてもらった。
柿本人麻呂、高市黒人、山部赤人、山上憶良、大伴旅人、大伴家持など、古文教科書・国文学史の超有名人の歌は、やはりすばらしかった。
有名な人は理由があって有名だということを思い知ったのである。
これはクラシック音楽でも、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンがすばらしいのと同様である。
藤原定家は、彼の和歌によって、言葉の美と内容の抽象性で、いつも魂が昇華する。
この定家の美空間を教示してくれたのが塚本邦雄である。
塚本の歌集は、非常に高価格だった。
最初に買ったのは『されど遊星』。貧乏学生には辛い3,500円だった…
しかし、衝撃を受けたのは金字塔と名高い『緑色研究』の中の短歌。
雉食へばましてしのばゆ再た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ
革命来たることなし町は旱天にならべてさかさまに売る箒
アヴェ・マリア、人妻まりあ 八月の電柱人のにほひに灼けて
出埃及記とや 群青の海さして乳母車うしろむきに走る
文芸評論家のような気が利いたことは語れないが、鳥肌が立つ歌たちである。
藤原定家は、私が高校生の時に出会った芸術家である。
小説家になろうとして、しかも美文を書きたくて、三島由紀夫と定家の作品に耽った。
ただし、藤原定家は、新古今和歌集よりも先に、塚本邦雄の『定家百首』を手に取った。
これが、私の芸術観を決定づけてしまったようだ。
当時はサヨク思想にもかぶれていたのだが、日本文学は好きだった。国語の成績は悪かったが…
塚本邦雄の藤原定家像はともかく、塚本経由で定家を受け入れたことは、その後の私の芸術鑑賞の大きな桎梏となってしまった。
しかし、「たられば」はない。
もともと、芸術の抽象性や、現実からの独立性、そして文学は言葉で構築する芸術、という思想は私の本性だろう。
藤原定家は、ブルックナーやヴィスコンティとならぶ、大好きな芸術家である。
新古今和歌集も凄い芸術本。
岩波書店の日本古典文学大系と新日本古典文学大系、小学館の新編日本古典文学全集、さらには岩波文庫版と、計四冊所有している。
古典といえども、古い説の総括と新しい説とが盛り込まれているので、小学館の全集本がお勧めである。
むろん、拾遺愚草をふくむ定家の全歌集本も所有している。
アントン・ブルックナー(Bruckner, Josef Anton)
ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti di Modrone)
藤原定家は、新古今和歌集の春歌上に四首載っている。
春の夜の夢の浮き橋とだえして峰に別るる横雲の空
大空は梅のにほひにかすみつつ曇りも果てぬ春の夜の月
梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏る月の影ぞあらそふ
霜まよふ空にしをれしかりがねの帰るつばさに春雨ぞ降る
どれも名歌である。新古今全体では四十六首。
藤原定家は、マラルメにも対比される抽象詩人。
難解な歌は、まるで禅問答のような難解さから、達磨歌(だるまうた)と誹謗された。
あるいは、言葉も、狂言綺語と。
しかし、芸術は現実の模写ではないし、文学は言葉の芸術である。
藤原定家は、日本最高の文学者にして、芸術家である。
摂関家(九条家)が定家一族の御子左家を支持し、支援した。
「~かも」の歌の終わり方が万葉調である。あるいは斎藤茂吉風である。
この歌の作者は、鎌倉三代将軍 源実朝である。
やまと歌をよく知っているなら別であるが、普通は武家の頭領と和歌とは結びつかない。
私も違和感があった。
そして、この歌は天才の詩である。
実朝は藤原定家と親交があったらしい。
定家の歌論に『近代秀歌』があるが、実朝の求めに応じてしたためたものらしい。
昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。
有名な一説である。
実朝が定家の教えに従ったかどうかは定かではない。
私が史上最高の芸術家と崇拝する、藤原定家の歌である。
「霜まよふ」とあるが、実は春の歌である。
「まよふ」の解釈も色々あるようだが、霜が雁の翼を痛めつけている様が、美しいことばで修辞されている。
秋には秋で霜に悩まされ、春には春で雨に苦しむ。
実際の、渡り鳥である雁の悲しい定めとか、あまり世俗的に捉えない方がいい。
というか、現実は無視するべきなのだ。
これは、形而上の文学、言葉で遊ぶ芸術なのである。
抽象性こそが、心を打つ。
時代は鎌倉、武家政権が現実のものとなり、貴族社会は崩壊に向かっている。
そういう、紅旗征戎をわがものあらずと言いのけて、天上の言語芸術に耽っている。
この美しさは頽廃であり、生きるためにはまったく無用の、無理やりひねり出された詩的空間。
滅びるものは、滅びと呼べるほどに美しくあらねばならないのである。
さて、またもや中国製の冷凍食品で毒物? が発見された。
結論は、市場経済をベースとした大衆消費社会が実現したことによって、こういった、大衆の生命が危険にさらされるようになってしまった、ということである。
もってまわった話をしよう。
たかじんがMCをつとめる深夜番組を見ていたときのことである。
キムチは韓国の名産であるが、そもそも唐辛子は日本から朝鮮半島へ伝わったと言っていた。
言っていたのは、その時の番組のゲストである大学の先生で、北および南の朝鮮の人である。
さて、唐辛子とあるからには、日本では唐つまり中国から伝わったのではと思っていたが、諸説紛々らしい。「唐」は外国の総称でもあるかもしれないし…
一説によると、豊臣秀吉の朝鮮侵攻時に、凍傷予防のための薬として、半島に持ち込んだと。
で、朝鮮では「倭辛子」と呼ばれたこともあるらしい。
このトウガラシを使ってキムチがつくられるのだが、韓国では、もはや韓国産のキムチは高くて買えず、中国から安いものを輸入しているとのこと。
はいこれで、経済力をつけた日韓の大衆消費社会は、同時に国内賃金も高騰してしまったので、労働集約型の商品の調達は、まだ低賃金である中国に依存しているということである。
もう、大衆であるならば、大きくお金を稼いでいないならば、身の丈にあった食生活をするべきではないだろうか。
ウナギなんぞも、年に1回食せばいい。
大衆相手に大量生産して儲けようとする日韓の企業は(日韓に限らないのだが)、人手を中国へ求めていくから、安全が維持できないのである。
要は、面倒臭くないとか、廉価とか、それを第一に考えれば、安全が損なわれていくのである。
デジタルのセキュリティも同様である。
命を捨てて安いものを食らうか、そうでなければ貧しさに応じた食卓で、命長らえるべきであろう。
ビッグコミックとビッグコミックオリジナルは、毎号買っている。
今日読んだ『蔵人(クロード)』というマンガ。どうにもはらわた煮えくり返って我慢ならない。
日本酒を造る蔵人(くろうど)、日本酒に魅せられた外国人クロード。クロードが蔵人(くろうど)になる(笑
あるイベント、日本酒を味わう会がホテルで催される。
その日飲んでもらう自慢の日本酒を運び込んでいる時、転んで酒瓶が割れ1本しか残らなくなる。
で、酒を取りに帰れば事故で渋滞…
今号はここで終わっている。
どうして、こんな詰まらないエピソードにするかなぁ。
というか、このイベントの券を作る時も料金の刷り間違いがあって徹夜で修正したりしてた。
イライラするんだよね。
もう少し、同じピンチでもレベルの高い話にできんのかな。
この作者は、オリジナルのような格のある雑誌に書く器じゃないね。
マスコミの輩は、勘違い者が多い。
何の資格があって世相を斬るのか?
「おバカタレント」で視聴率を稼ぐ低俗クイズ番組
どこまで視聴者をナメきっているのか。見るに堪えないTV番組が氾濫している。どのチャンネルをつけても似たような番組が並び、同じタレントの使いまわしが横行する。春の番組改編期を迎える今、日本人をとことん劣化させているテレビの大罪を問う。
テレビを見ていることそのものがバカになるんだよ。
賢い人や豊かな人は、貧乏人の娯楽であるテレビは見ないの。
何を頓珍漢な怒りを表明しているのか。
例えば、年金や暫定税率など、今が旬の政治的話題さえ知らない者に選挙権を与えていてもいいのか?
政治的に無知であれば投票資格を剥奪するべきではないのか?
知識のあるなしという問題を掘り下げれば、深刻なテーマにもなるんだよ。
上っ面だけ攻撃するんじゃないの、大衆メディアは。
ずさんな経営が次々と明るみに出ていた新銀行東京だが、ついに石原都知事の思惑どおりに400億の追加融資が都議会で可決された。
多くの都民や、金融機関が疑問視する新銀行東京であるが、都民の皆さんは、そういう都知事を選んだこと、自民党や公明党の都議を当選させて多数派にしたことを、悔やんで悔やんで悔やみ抜いて、今後の身の振り方を考え直した方がいいだろう。
あの時、新銀行東京を潰しておけばよかった、と泣きが入らないように。
また、返済の能力も意志もなく、借り逃げ御免の不埒な中小企業が出てこないように祈るばかりである。
ほんと、汗水垂らして稼いだ中から取り上げられた税金が、こうもアッサリと湯水のごとく使い込まれることに唖然とするばかりであるが…
東京都民ではないものの、我が身が斬られるほどに辛いことである。
新銀行東京の件で東京都議会が揺れて(荒れて)いるようだ。
石原都知事の400億円追加出資案に対して、与党(いつの間に?)の自民党は賛成に回り、民主党をはじめとする野党は反対。与党の公明党が風見鶏状態になっているそうだ。
asahi.com:新銀行東京追加出資、与党・公明の支援者に反発続々 – 政治
公明が同意すれば賛成多数で可決が確実となるが、支持者から反発の声が後を絶たない。
「追加出資には反対です」「賛成ならあなたのポケットマネーも出すべきだ」。ある公明都議の元には1日2、3通、新銀行東京に関する支援者のメールが届く。すべてが出資に反対の意見だ。
この「賛成ならあなたのポケットマネーも出すべきだ」は強烈だ。
安倍晋三が史上最低の総理大臣と思いきや、福田康夫はもっと上手で驚いた。
この人の選挙区の群馬4区の有権者も、もし日本が大変なことになったら責任とって欲しい。円高ドル安、株価低迷、石油食料高、などなどなどなど… 福田康夫に票を入れた人は連座して万が一の時は弁償しろというところか。
責任とりたくなかったら、しっかり次の選挙で落選させろということになる。
とはいうものの、民主党もたいがいなんだが…
「賛成ならあなたのポケットマネーも出すべきだ」 に戻る。
政治家が、いとも簡単に税金投入するのは、自腹でないからだ。
そして、支持者が苦情を言ってくれば落選する恐れが出てくるので、これまた自己利益で悩むだけ。
票を失っても、ポリシーを貫く政治家はいない。
バスケットボールなんて、まったく興味がなかった。
ある時、息子がみていたアニメの『スラムダンク』に魅せられ、わが子に笑われながらもコミックスを揃えたりした。スラムダンク 完全版 全24巻セット
マイケル・ジョーダンも知った。
BSのNBA放送もたまに見た。
最近までは、ビッグコミック連載の『ファイブ』にもはまった。NHKのドラマも見た。
たくさんの感動をもらったバスケットボール。
そして、『ファイブ』のアイシン・鈴木貴美一が日本代表監督に、同じくアイシン・佐古賢一も代表選手となった。
と・こ・ろ・が
なってこった。
バスケットボールが嫌いになりそうだよ。
「テレビは貧乏人の娯楽である」と、どこかで見かけた記憶がある。
私はSOHO、しかも後ろの「ホーム・オフィス」の方であるから、一日中テレビを見ようと思えば可能である。
実際、かつてはリビングルームにノートパソコンをおいて仕事をしていた。まだ仕事も順調でなく収入も不安定な時期で、冷暖房はその部屋しか完備していなかったからだ。そして、テレビは点けっぱなしであった。
昼の連続ドラマにどっぷりはまったりもしたし、小泉劇場も堪能させてもらった。
今は、2階の和室にコタツとウインドクーラーを設置して、クラシック音楽をBGMに仕事に励んでいる。
テレビはほとんど見なくなった。見る暇がないという切羽詰まった状況もある。忙しいし、暇を作るほど左団扇でもない。
欠かさず見る番組は『相棒』ぐらいである。これは知的エンターテインメントとして非常に優れている。日本人もこんなドラマを作れるようになったし、また多くのファインがいて、日本も捨てたもんじゃないと思える。
さて「テレビは貧乏人の娯楽である」とは、村上龍が書いたとか、大橋巨泉が言ったとか、私もソースを確認していない。
が、言い得て妙である。
では逆に、金持ちはテレビを見ないで、ディナーやパーティを楽しんだり、海外旅行に行ったり、手間も金もかかる趣味に没頭するということなのだろうか…
そして「貧乏人」が経済的なレベルのことだけなく、知識や教養、社会に対する判断能力だったりすると、かなり大ごとになってくる。
あるいは「娯楽」に留まらず、ほとんどの情報源となっていたとしたら…
テレビは愚民の脳そのものである
ずっと欲しくてたまらなかった宮沢賢治の全集。
文庫版だが、先日、念願の購入を果たしたところだ。
全集だから、 銀河鉄道の夜や 風の又三郎はもちろんのこと、必ず泣けるグスコーブドリの伝記も入っている。春と修羅も。
しかし何度読んでも鳥肌が立つのは、「生徒諸君に寄せる」という詩。
諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のように忍従することを欲するか新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て新しい時代のダーウヰンよ
さらに東洋風静観のキャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
すばらしく美しい構成に変へよ諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
これが、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と達観した大善人と勘違いされてきた「空想的社会主義者(吉本隆明評)」の心の叫びである。
宮沢賢治没後75年、四半世紀が経つが、新たな時代のコペルニクスやダーウィンやマルクスはまだ現れない。
無駄に平和を貪るわれわれは、地平線に没し、奴隷のように忍従し続けているのである。
サラリーマン時代に、会社事務所にたまったゴミを捨てに行ったことがある。
営業・商品配達用のボンゴ車3台に、可燃・不燃ゴミを詰め込んで市のゴミ処理場に向かった。
可燃ゴミは焼却場で処分してもらう。不燃ゴミは廃墟のような敷地に勝手に放り投げてくるだけだ。
ところでゴミ焼却場に着いたのが午前11:50ごろ。1台ずつ車検証を見せながら重量計の上に乗る。ここの係員がとんでもないことを言ったのだ。
時刻は午前11:50。
可燃ゴミを積んだボンゴ2台が計量され、螺旋状の道を上ってビルの最上階に昇り、下の焼却炉に段ボールやポスターや古い伝票の束を落としていく。
作業は30分ほどはかかっただろうか。焼却場を出たのは12:30くらいだっただろう。
元に戻ろう。
とんでもないことを言ったというのは、「こんな時間に来やがって、オレたちの昼飯を食う時間が遅れるだろうが。あほんだら」といった内容だったのだ。
当然、売り言葉に買い言葉で、「その遅れる昼飯も、ワシらの払った税金で食えるんじゃ。おまえらの給料も、ワシらが昼休み時間も働いて稼いだ金から出とるんじゃ!」と吐き捨てた。
ほんと公務員の脳みそは腐っている。
そもそも、貴重な営業時間を割いて、ゴミ捨てなんかさせるなよ。バカ上司!
55年体制とは、1955年自由民主党が誕生し、これに日本社会党が援護射撃して、長期政権与党と万年野党という構造で日本が腐っていった起源のことである。
政治側のなれ合いと、経済側における資本と労働というこれまたなれ合いが照応し、日本の安定的な発展と変化に対する脆弱性が刷り込まれる。
さらに、役人の世界でも、上は省益私益を貪り、下は親方日の丸と揶揄されるグータラで無能な給料ドロボーを排出することにもなる。
究極は、こういった政治家や官僚や役人を存続させてしまった国民性の低さの問題なのだろう。つまり大衆が悪いのである。
逆に、あまり政治に頼らず、許認可にも無縁な業界は、戦後から一貫して伸びており、世界進出などもめざましい。
日本は、政官以外、大衆以外、ごく一部の努力家や天才が活躍しているのである。
「フーガの技法」は、非常に嗜好の高い曲である。私はバロックではなく現代音楽として聴いている。
幻想的、神秘的、非日常的、脱現実…
さて、43枚のコレクションのうち、過半数の22枚はNapster(ナップスター)で入手したものである。
以下にわがコレクションを一覧する。
No. | 演奏者 | 年 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | Aimard, Pierre-Laurent [Pf] (1957- ) | 2007 | |
2 | Alain, Marie-Claire [Org] (1926- ) | 1993 | napster |
3 | Amsterdam Loeki Stardust Quartet | 2006 | napster |
4 | Aurelia Saxophone Quartet | 2005 | napster |
5 | Bernard Labadie & Les Violons du Roy | 1997 | napster |
6 | Borciani, Paolo [Vn] etc. | 1988 | napster |
7 | Berliner Bach Akademie | 2000 | |
8 | Calefax Reed Quintet | 2000 | |
9 | Canadian Brass | 1987 | |
10 | Colm Carey | 2005 | napster |
11 | Dirksen, Pieter [Cemb] (1961- ) | 2002 | |
12 | Emerson String Quartet | 2003 | |
13 | Ensemble Wolfgang von Karajan | 1994 | napster |
14 | Fagius, Hans [Org] | 2000 | napster |
15 | Fretwork | 2001 | |
16 | Goebel, Reinhard (1952- ) | 1984 | |
17 | Goebel, Reinhard (1952- ) | 1996 | napster |
18 | Gould, Glenn [Pf] (1932-1982) | 1962 | |
19 | Håkan Wikman [Org] | 1996 | napster |
20 | Juilliard String Quartet | 1992 | iTS |
21 | Kei Koito [Org] | 1999 | napster |
22 | Keller Quartett | 1997 | |
23 | Keller Quartett | 2000 | video |
24 | Koroliov, Evgeni [Pf] | 1990 | |
25 | Leonhardt, Gustav [Cemb] (1928- ) | 1969 | |
26 | Münchinger, Karl (1915-1990) | 2001 | iTS |
27 | New Century Saxophone Quartet | 2003 | |
28 | Pittsburgh Symphony Brass | 1998 | napster |
29 | The Portland String Quartet | 2006 | napster |
30 | Quartetto Bernini | 2001 | napster |
31 | Quartetto Classico | 2001 | napster |
32 | Robert Hill [Cemb] | 1999 | napster |
33 | Roelofs, Albert-Jan [Cemb] | 2007 | napster |
34 | Rubsam, Wolfgang [Org] (1946- ) | 1993 | napster |
35 | Rubsam, Wolfgang [Org] (1946- ) | 1993 | napster |
36 | Savall, Jordi (1941- ) | 2001 | |
37 | Sebastien Guillot [Cemb] | 2006 | napster |
38 | The Roth Quartet | 1935 | iTS [+] |
39 | Sokolov, Grigory [Pf] (1950- ) | 1982 | |
40 | Trio 335 | 2002 | napster |
41 | Troeger, Richard (1953- ) | 2005 | napster |
42 | 高橋悠治 [Pf] (1938- ) | 1975 | |
43 | 高橋悠治 [Pf] (1938- ) | 1989 |
「年」は調べた限りの演奏(録音)がなされた年であり、備考はNapsterはそのまま、iTSはiTunesストア、その[+]はiTunes Plus(DRMなし)である。videoはDVDをリッピングしたもの。空欄はCDである。
すべて、iMacのiTunesにエンコードしている。
Napster(ナップスター)で入手したクラシック音楽の全集は数々あれど、もっとも狂喜乱舞したのがリチャード・グード(Richard Goode)のベートーヴェン ピアノソナタ全集である。
通によると、ベートーヴェンのピアノソナタは、バックハウス(Wilhelm Backhaus)またはエル・バシャ(El Bacha)にかなうものなしとのことだ。
私は、好みとして死者の音は最後に聞きたく思うので、存命中の演奏家の録音にこだわりたい。
そこで、ブレンデルやポリーニなど有名どころもいるのだが、いろいろ知恵を付けた後に、長いことリチャード・グードのベトソナが欲しくてたまらなかった。
Amazonでは、輸入盤が12,000円ほど、国内盤なら15,000円弱である。HMVでも輸入盤が10,000円超と、CDが10枚組なので値段もそれなりなのである。
いつ買うか迷い続けたあるとき、何とナップスターでグードの全集がそろっているではないか!
そこで、WMAのDRMを解除 – Mac版iTunesでナップスター三昧のやり方でごにょごにょ、iTunesにクラシック系のアートワークを取り込むのも苦労しながら名曲 Corelli:La Follia – Napsterの曲にiTunesストアのアートワークをで。
いや、至福の極みである。
なお、ベートーヴェンは英語読みが日本で定着したものであり、Ludwig van Beethoven(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)は、ドイツ語読みでは「ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン」と発音するらしい。
クラシック音楽もそれなりに聞き込んで、ブルックナーはもはやオタクの領域、マーラーもほどほど全集を収集しているが、最後の最後はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンにかえっていく。
ベートーヴェンの、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲は途方もない完成度をもっており、かつ音楽を完成させるとともに破壊したごとくである。
この前の土日(12-17~18)に、iTMSで一部のアルバムが、なぜか50円になっていた。
スタッフのミスか、バグったのか、確信犯なのか、理由はどうでもいい。とにかく時間の許す限り50円アルバムを買いまくってしまった。
結果的に、購入は99枚、都合4,950円の出費である。
当然、まだすべて聞き終わっていないし、一生聴くことのない曲もあるだろう。
ところが、行き当たりばったりの買い物で、掘り出し物があったのだ。
掘り出し物とは、iTunesをインストールしているなら検索を。
iTMSでは、「Streichquintett No. 3 in G-moll, KV 516」となっているが、「弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516」のことであり、第4番が正しい(はずだ)。
さて、モーツァルトには、短調の曲が極端に少ない。後世の交響曲の大作家たちの作品とは隔絶しているわけだ。
なかでも、有名なト短調交響曲、第40番 K.550の前年に、このト短調弦楽五重奏曲が作られている。
つまり、数少ない短調の中のト短調、しかも時期的にも近接していて、妙な因縁を感じてしまうのだ。
もうダメだ。
若い頃に、どっぷりつかったクラシック音楽、モーツァルトやベートーベンは言うに及ばず、なかでもブルックナーとマーラーのシンフォニーに耽溺していた時代が、郷愁となって襲ってくる。
さぁ、CDを揃えよう。iPodも買おう。
と、オークションで交響曲全集を次々落札していくうちに、オレは外で音楽を聴くのか?という疑念が湧いてくる。
つまり、iPodが要るか要らないかということである。
なぜなら、複数の指揮者やオーケストラを漁って、数万円に達しているから予算的に厳しい状況に追い詰められたからである。
それと同時に、自宅にはオーディオがない、自宅でiPodのイヤホンを付けたくない、クラシックをそんなインフラで聴くのもどうか…
ということで、iPodは来年には第6世代が出るだろうし、自宅でよりよい環境ということで、パソコンにつなげるスピーカーから手を付けることにした。
仕事はWindows、iBookのiTunesとスピーカーで、部屋をブルックナーとマーラーで響かせるぞ。
藤原定家の和歌は、自身は「有心」と概念化しているが、他の凡庸な詩人は「達磨歌」などと扱き下ろしている。つまり難解で、もはや歌ではないということである。
狂言綺語は、「きょうげんきご」または「きょうげんきぎょ」と読み、道理のない言と過ぎた修飾の語ということで、これまた定家の歌の批判である。
新古今和歌集と、定家の入撰歌について、語れば長くなるので、今回は一首のみ。
最後で分かることだが、春の歌である。
陰鬱で悲惨である。
渡り鳥の雁は、やまとに来た冬には翼が霜にまみれ、旅立つ時はまた、春の雨にうち拉がれる。
鳥に思いを致せば「あはれ」そのもの、だが禽獣が、己の持って生まれた性を嘆くはずもない。
あくまでも観念的な情景であり、歌のために設定されただけの素材である。
新古今は、やまと歌の集大成であり、また言葉の芸術の最高峰である。
言葉の芸術は、本来は現実とは無縁であり、また世俗から離脱できたところに、最後の和歌集が絶対文学となり得たのである。
なお、後者のカスタマーレビューのhyperteikaは編集人のものである。
三十一文字にたくされた心象、風景、思想。やまとうたは芸術の頂点である。また人それぞれであろうが、万葉のように自然や神神との交感もなく、古今のように常住坐臥の礼賛もなく、ひたすらことばのみで構築される架空の宇宙。
抽象的で形而上のうたを味到することによって、至高の時、究極の芸術を堪能する。藤原定家とその他の歌人たちが、苦しみ悶えながら紡ぐ一行一行を、命尽きる前に一度は愉しんでいただきたい。芸術作品としてたった一品をと云われた時に間違いなく推薦できる秀逸の歌集である。
昨日、「一太郎 文藝」なるものを購入し、今試用している。といっても、使用しているのは、文藝版ATOK2005である。
一太郎2005は既に持っていたし、そもそも執筆はエディタを使った方が言葉が続くし、ましてビジネス文書ではWord一本である。
一応、言葉の芸術に嗜好を持つ者として、コレクションしてみてもいいかなと思ったことは確かだ。
しかし、高い。一太郎2005からの優待版でも、26,250円もする。 秀英細明朝フォントが高くつくのだろう。
一番は、角川類語新辞典が使いたかったからだ。
文章を書くならボキャブラリは豊富でありたい。
文体に無頓着な駄文の愚者ではありたくない。
二昔前は、国語辞典、漢語辞典、類語辞典などを総動員して、言葉に工夫をしたものだ。
一昔前は、エー・アイ・ソフトのWXG4なる、最高最後のIMEをカスタマイズ仕上げ、自作辞書で数万語登録したものだ。
WXシリーズが開発中止となって、インターネットビジネスに忙殺されて、電脳入力にも意欲も魅力もなくなって、IMEにこだわるのも面倒になって、MS-IMEなる粗末なもので我慢して数年…
電子辞書は数々所有すれど、この角川類語新辞典は、ATOK用しか電子版がないのである。
選択肢は限られる。あとは、歴代購入してはアンインストールしているATOKを常用できるかどうかだ。
そのほか、一太郎 文藝用辞書が特別に用意され、また康煕字典体が素早く入力できること。
明鏡国語辞典も付いてくる。国語辞典はたくさん揃えたい。
美しい秀英体フォント。かつJIS X 0213:2004規格対応で第三・第四水準漢字も、万が一の時に出力できる。
しかし、秀英体はともかく、既にあるATOK2005に、辞典を買い足せば済む話。これだけでは、一太郎 文藝を買う決め手には遠い。
これが、購入の決定打だった。
藤原定家の和歌をいくつか試してみたが、完璧である。
どのバージョンからか、ATOKは古語も入力できるようになっていたことを、はじめて知ったのである。
さぁ、ではATOKは、好みのキーカスタマイズができるか、ローマ字をカスタマイズできるか、押し入れの一太郎2005を取り出し、インストールしたATOK2005を一週間ほど試して、99%好みのものに変更できることを確認して、一太郎 文藝を注文した。
逆に言えば、欲しくて堪らなかった角川類語新辞典も、古語が入力できるATOKからダイレクトで利用できることになるわけだ。
格調や実績のある秀英体まで手に入る。
日本語に拘るものとして、ワープロの文芸バージョンは必須のコレクション。
こうして、買わない理由がなくなったのであった。
使いはじめた今は、頗る満足していることを付け加えておこう。
「紅旗征戎」とは、藤原定家の公開用日記であった明月記の記述、「紅旗征戎非吾事」の言葉から借用し、日本=現代の倭国のまつりごとやあきないなどに毒づくカテゴリである。
また「倭国」とは、卑弥呼であれ、五王であれ、日出づるところの天子であれ、とにかく当時は、辺境の日本は世界の中心であった中国に「朝貢」しており、今の世界の中心のアメリカの、政治的・経済的・文化的な支配におかれている現況と類似していることへの、蔑称の意味である。
中国に対して、「倭国」を「日本」と国号変更を認めさせたのは、天武系政権の手柄である。もちろん、書記を中心とした日本史の偽造改竄は、代償も大きい。
さて、アナログは言うに及ばず、MicrosoftやGoogleの跳梁跋扈を、嘆き悲しむ性根はないものか…
ITリテラシーなき者たちを相手に可能な限り儲けようと、卓越した思想もなく、高邁な品格もなく、倭国の電脳企業は浅ましや見窄らしや。嗚呼、シャイロック也。
眠れぬ夜は、マンガを読もう。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
先日亡くなった横山光輝氏の歴史コミックはほとんどそろえているが、先日久しぶりに読んだ「武田信玄」が、感慨深かった。
原作は、新田次郎。
圧巻は、続・武田信玄とサブタイトルが付けられた「武田勝頼」の方である。
騎馬軍団を主力とした武田は、日本最強と言われていたが、例の長篠の戦で壊滅的打撃を受ける。
問題は、戦上手で信長が非常に恐れた天才勝頼が、古参幹部に軽んじられ、最後は見捨てられ、悲惨な最期を遂げることである。
ちなみに、家康は投降して来た旧武田家臣たちを重用したが、信長は類を見ない不忠者として処刑したそうである。
武田が滅びたのも、そもそも天下を取る器でなかったことも、すべて信玄の責である。
そして信玄の限界は、甲斐という田舎、彼を取り巻いた戦国時代最適化された家臣、時代認識、諸々である。
朝廷、将軍、上洛など、旧時代的な価値観を持ち、地理も手伝ってなかなか行動を起こさなかった者と、新しい日本の未来を描き、守旧派を殲滅していった者との違いである。
当然、「川中島」なる、後世の語り草にはなっても、日本の歴史には全く影響のない戦に没頭したその武将センスが、天下と無縁な人材であることを物語っている。
上杉謙信も同様であるが、隣接する、目の前の、強敵潰しに現を抜かし、日本革命の戦略を持たず、そこにある戦という戦術に没頭したわけである。
これは、今現在のビジネスでも同じことが起こっている。
戦っても何にもならないことに精力を費やせば、会社は潰れるのだ。
そして、親を追い出し、子を討ち取り、後継者を育成せず、古参幹部と馴れ合う。
くわばら、くわばら。
武田信玄