まず、大政奉還は慶喜オリジナルの考えではありません。
歴史書でよく見かけるストーリーは以下のようなものが多いと思います。ちなみにこのストーリーに、私自身はまったく納得していません。
慶喜の前にいきなり坂本龍馬登場ですが、 その坂本龍馬について少しだけ書いておきます。
最近の研究で「船中八策」はフィクションということが、ほぼ確定しています。船中八策は、明治以降に出た龍馬の伝記物語などで、作られていったフィクションであり、司馬遼太郎はじめ歴史小説化たちが再構成した物語です。
ここに来て従来の坂本龍馬像は、大きく修正されています。薩長同盟における龍馬の貢献度も、ほとんど無かったと、言われていますし、日本最初の商社と言われる亀山社中や、日本最初の新婚旅行をしたというお話も否定されています。
だからといって「龍馬なんてすべてがフィクション」と、マウント気味に否定するつもりはありません。調べるに従って、たとえ船中八策がなかったとしても、それは龍馬が大政奉還を知らなかった、建言しなかったということではありません。私は龍馬の貢献は大きかった、と考えています。
むしろ、大政奉還を後押しした人物として、坂本龍馬は書き換えられるべきです。いずれにしろ 1.の船中八策はありませんし、大政奉還は坂本龍馬のアイディアではありません。とても残念ですが、ケイキ君が、坂本龍馬にあったという記録もありません。龍馬は脱藩浪士ですから、普通は会えませんね。
ケイキ君と坂本龍馬って会ってないんですか? 残念だなあ。この二人が会ってたら、歴史も変わってたと思いますよ。
いや、私は知らないんだ。会ってもいないはずだ。ただ、永井が確かそんな男の名を口にしていたかもしれない。今は、面白そうなやつだから、会ってみたいとは思っているよ。
さて、では大元が船中八策でなければ、慶喜が大政奉還というアイディアを知ったのはいつなのか、というのが今回の本題です。
まず、大政奉還が行われた慶応よりずっと前に起こった主なでき事から押さえておきましょう。大久保一翁(いちおう)という人物が重要です。
大久保一翁ですが、同じ大久保姓である大久保利通の陰に隠れていますが、かなり重要な人です。明治維新は彼なしには実現していなかった、とさえ評価する声もあるようです。私は秘かにホワイト大久保と呼んで尊敬しています(大久保利通ファンの方すいません)。
大久保一翁(当時の忠寛 ただひろ)はエリート老中阿部正弘の部下でした。阿部正広が黒船への対応について、広く意見を募ったことがありましたが、その投書の中から旗本の勝海舟を発掘したのは、実はホワイト大久保です。その後、勝と一緒に、日本の海防強化に尽力します。
幕末の戊辰戦争でも、やはり勝と一緒に、無血開城の実現に奔走しました。江戸の反乱を抑えるために手を尽くした人です。勝海舟はこの人に足を向けて眠れませんね。
この人とにかく筋を通すホワイトな人という印象です。やっていることは全部正しくて、そこに私心がかけらもありません。
安政の大獄で、チャカポン井伊直弼に立ち向かっています。そのせいで罷免されちゃいます。坂本龍馬と会ったとき、大久保は井伊直弼に罰せられて謹慎していたときでした。
今でいう社会貢献にも熱心に取り組んだ人で、病院や孤児院の設立にも力を注ぎました。明治維新の混乱を最小限にするため、幕府が貧困対策で蓄えた資金を、新政府側にすべて譲渡しています。
ほぼ歴史の表舞台には出てきませんが、人気がないのはホワイトすぎるからですかね?
さて、大政奉還はこのホワイト大久保がすべての起点なんですね。大政奉還が彼独自の案だとはいいません。独自案かどうかというのは、議論してもあまり意味がありませんよね。
ホワイト大久保から土佐藩坂本龍馬に一本の線が引かれて、のちの慶喜の大政奉還につながっていくわけです。坂本龍馬が早い時期に大政奉還の案に感服していた、というのは押さえておくべきポイントになります。
ではなぜ、ホワイト大久保が大政奉還を進言したのでしょうか?
もちろん、この本心はわかりません。わからないので、妄想が入り込めますね。
まずは、前提として天皇と幕府の権威と権力の分離構造があります。ミカドが一番えらい権威なのですが、実際の政治権力は全部幕府が持っています。幕府はミカドから「大政を委任されている」という暗黙の了解がある、というのが、その当時の知識人の共通認識でした。
ところが黒船がやって来て、この委任がほころびはじめます。
幕府が開国方針を説明しても、ミカドは「開国ダメ絶対!」と大きなバツ印を出します。
ミカドから外交方針を反対されたら、もう委任状態ではありません。ここは筋を通して、いったん政権を返上して、新しい政治体制を建てるべきだ、というのがホワイト大久保の主張です。
ホワイト大久保らしい生真面目な筋論です。ポジショントークとか、政治的な思惑や陰謀なんて、まったくない人だと思います。
ホワイト大久保は、旗本の出です。旗本の最高位、側用人まで出世していますので、相当優秀な人でした。ただ、それでも側用人です。この地位で大政奉還を進言するなど、本来はありえません。ていうか、過激すぎるでしょう。案の定、「お前やりすぎだぞ」と、左遷されてしまいます。
大久保について語り始めると、止まらなくなりそうなので、このくらいにしますが、心がきれいで視野の広い人として、幕府、薩摩、朝廷含め多くの人から尊敬された人です。
さて、次にこれが慶喜にどうつながるかです。ようやくここで慶喜ですね、すいません。
慶喜は、もちろんホワイト大久保に会っていたとは思いますが、側用人が直接慶喜と話せたのか、その辺はわかりません。記録上、大政奉還は松平春嶽から慶喜に提案しています。
この時の松平春嶽は政治総裁職、つまり大老でした。大久保一翁はその側近だったようです。
大久保発、春嶽経由、慶喜行きという列車が編成されたわけです。
春嶽は二回大政奉還を進言していますが、この二回とも慶喜は反故にしています。
え、ケイキ君ってミスター大政奉還だと思ってたのに、いきなり反故にしちゃうんですね
ミスター大政奉還って言われても、私はこのとき将軍後見職だよ。将軍に幕府やめて、とか言えないだろ?
私はこれを知った時、「え?慶喜、却下しちゃうの!?」と飛び上がりました。
後世の私たちから見たら、慶喜はミスター大政奉還ですが、それは結末を知っている視点です。
歴史を見るとき、気をつけないといけませんね。ひとつひとつの出来事を、当時のその人の立場を理解して見ていかないといけません。
似た話として、ミスター倒幕の岩倉具視も、倒幕直前まで、実は全然違う考えを持っていた(慶喜を政権に迎えるつもりだった)ふしがあります。このネタは後ほど。
二回のうち最初は、慶喜が将軍後見職になった時期、1862年から1863年(文久三年)です。
ホワイト大久保が幕府に対して大政奉還を提案してすぐあとです。
同時期、坂本龍馬と松平春嶽が会っていたという記録もあります。春嶽が大政奉還を言い出した時期と符合しますし、春嶽の側近横井小楠(こぐす)も大政奉還を主張していますから、案外三人が大政奉還について話したのかもしれません。
龍馬に大政奉還の種を撒いたのは大久保一翁ですから、起点は変わりませんが、この時期の春嶽は、大久保、横井、龍馬と大政奉還を主張する人たちに囲まれていますね。
慶喜は安政の大獄の謹慎から解放されて、(不本意ながら)将軍後見職になっています。
慶喜は「将軍後見職という立場からは、安易に大政奉還などと言うべきではない」と、春嶽の案を退けます。
私の印象ですが、慶喜は自分のお役目をしっかり意識して発言します。そういうとき彼は「本心」を、いったん隅に追いやります。
まあ、「本心」なんて言い方が、すでに現代の勝手な言い分なんですけどね。
もう少し深く掘っていくと、慶喜が単純な立場論ではなかったということが見えてきます。慶喜の考えを、僕なりに代弁すると、以下になります。
「安易に大政奉還などしてはいけない。その前に、ミカドの意向をきちんと確認したい。ミカドと信頼関係を回復する努力をして、もう一度、幕府への委任をしっかり確認しよう」
これは実際の行動から私が勝手に解釈しています。文久のこの時期、慶喜は京都に入り、朝廷から委任確認の勅許を得ようと奮闘しています。
これ正論ですよね。大政奉還の前に、やるべきことをやりつくしたのか、ということだと思います。
ただ現実は厳しくて、朝廷にのらりくらりとされてしまいます。慶喜は何度も辞表を提出するなど、朝廷との駆け引きに疲れ果てます。案外、大久保一翁の方が、よく見えていたのかもしれません。
一方で、慶喜はミカドから強い信頼を勝ちとります。孝明天皇はケイキ君大好きになります。慶喜が辞表を出しても出しても、「やめさせないから」と受け取りません。この辺のやり取りを通じて、慶喜は「幕府を守る立場」から、「ミカドの側近」に、徐々に変わっていくことになります。
二回目は第二次長州征伐の時期です。1866年(慶応二年)の秋です。
慶喜はいったん、長州征伐の陣頭指揮を取ろうとしますが、幕府軍が長州相手に負けはじめます。その戦況を聞いて、「いや、これ無理ぽ」となって、この戦いをドタキャンします。
孝明天皇含め周りはあきれますが、慶喜はここで松平春嶽に助けを求めます。
ちなみに春嶽はじめ福井藩は、この第二次長州征伐に一貫して反対していました。
大久保一翁も勘定奉行として幕府に復帰しています。復帰してすぐに、長州征伐に反対しています。間違いなく、春嶽と大政奉還の線で連携があっただろうと思います。ただ、大久保一翁は、長州征伐に反対したため、勘定奉行をすぐに辞めさせられてしまいます。
春嶽は「天下の大政をすべて朝廷に返上すべき」と、慶喜に再度大政奉還をするよう進言します。
慶喜は「わかった。大政奉還するよ」と、これをいったん了承します。春嶽や勝海舟たちに朝廷や長州藩との調整を依頼します。
春嶽は、朝廷にも長州にも、「諸侯を集めて新しい政治体制を作るから」と言ってまとめます。
しかしです、「わかった」と了承された大政奉還は、実行されません。春嶽は裏切られたと、激オコして福井に戻ってしまいます。
二回目については、「却下」ではなく「反故」にしたという感じでしょう。いずれにしろ慶喜は二回目の大政奉還を実行していません。
この第二次長州征伐の時期の慶喜の行動や発言は、クラクラするくらいメチャクチャです。
長州征伐をドタキャンして、後始末は勝海舟や春嶽に丸投げして、約束した大政奉還もテヘペロして反故にしてしまいます。そして、「お願いですから将軍になってください」と頼まれても、「いやだ」と、さんざん駄々をこねたくせに、ある日「やっぱり将軍やるから」と、将軍になります。
第二次長州征伐のころのケイキ君って、なんか混乱していますね。いったいどうしちゃったんですか?
あとから見ればそう見えるのかもしれないが、
ひとつひとつは私なりに考え抜いた決断だよ。
きっと、それぞれの場面で彼なりの理由があったのだと思いますが、出来事を追っていくと、慶喜ファンの私でも胸が苦しくなります。
話がいろいろそれましたが、大政奉還は慶喜の独自の案ではなく、かなり前から出ていました。言い出しっぺは、大久保一翁で、彼の勇気ある提言が起点となって、その線路が春嶽へと続き、秘かに坂本龍馬にもつながっていきます。
慶喜は大政奉還を決断する機会が三度あったことになります。
一回目は松平春嶽からです。慶喜は将軍後見職という立場から、これを却下します。
二回目も松平春嶽からで、慶喜はいったん了承しますが、反故にしています。大政奉還を自然消滅させた上で、慶喜は将軍に就任しています。なんかここモヤモヤしますので、あとで取り上げます。
1867年(慶応三年)10月3日、土佐藩の山内容堂が、後藤象二郎を通じて、大政奉還建白書を老中の板倉勝静に提出します。船中八策はフィクションですが、三度目の正直の大政奉還で、私は坂本龍馬の貢献度が相当大きかったと考えています。大政奉還が、後藤の提案とはちょっと思えないのですよね。
大久保一翁を起点とした線路が、坂本龍馬につながり、満を持して土佐藩から展開されます。
三度目の正直で、慶喜がこれを実行します。三度目の決断は電光石火です。
後藤象二郎の提言が10月3日で、大政奉還を宣言するのが10月13日です。国家の最重要案件を決めるには、いくらなんでも早すぎます。
この早さを見ると、「土佐藩の提言を受けて大政奉還を決断した」とする話は、疑いたくなります。
徳川慶喜は、二度退けた大政奉還を、なぜ三度目で実行に移したのでしょうか? しかもあんなに素早く? これが次の疑問です。
1847年(弘化4年)9月1日に、慶喜、当時の松平昭致(あきむね)は、一橋徳川家の養子になり一橋家を相続します(この時点では七郎麿ではありません)。当時11歳、小学5年生です。8月1日に、超エリート老中の阿部正弘は、十二代将軍の家慶からの思し召しとして「昭致を御三卿・一橋家の世嗣(せいし=世継ぎ)としたい」と伝達します。これ慶喜の人生最大の分岐点ですよ。だって、ここがまさに最後の将軍の起点です。
8月ご指名の前だと思いますが、内々に「水戸藩から一橋家に養子出せる?」との打診があったようです。水戸斉昭側は「それって別の子供でもいいの? それとも昭致一択なの?」と逆質問します。
実は斉昭パパは、「長男に万が一があった時のバックアップ」として、優秀な慶喜を養子に出さず手元にキープしたかったのです。
家慶側からの回答は「ダメ。絶対昭致で」という強いご指名でした。これで斉昭パパは、「あれ? これってひょっとして」と何かを感じます。
一橋家は「御三卿(ごさんきょう)」です。「御三家」は「尾張、紀伊、水戸」、「御三卿」は、田安、一橋、清水です。御三家と御三卿は将軍の跡継ぎを出せる家です。御三卿の方は八代将軍吉宗が新たに作りました。それぞれの江戸城の邸宅が造られた門の名前「田安門」「一橋門」「清水門」から取られています。
でも、なんで家慶が一橋家の子供を指名しているの?
当時の将軍は二代続いて一橋家だ。当時は家系の維持が一番大事だからな。
なんで将軍家慶から直々のご指名なの? と疑問に思って調べると家慶のお父さん十一代将軍家斉(いえなり)が、もともと一橋家の長男だったのです。
これは余談ですが、家斉は歴代将軍で一番遊びまくった人です。大奥に入り浸って、わかっているだけで16人の妻妾がいて、53人の子供(男子26人・女子27人)を造りました。その上、贅沢三昧で賄賂も奨励しちゃうありさまです。外国人なんて追い出せと、「外国船打ち払い令」という無謀なお触れを出して、無駄に防衛費を使いまくりました。わがまま放題です。
このとんでもない人が歴代最長50年の長期政権ですから、幕府は壊れます。腐敗しまくって、財政が破綻しました。人々の不満がたまり、大塩平八郎の乱を招きます。幕府の信用はガタ落ちになります。ある意味、家斉は幕府崩壊の下り坂の起点となった人です。
さて話を戻すと、家慶は自分の家、つまり一橋家が代々の将軍家を継ぐ流れを維持したかったのだと推測できます。この当時、お家は大事、優先順位の一番です。
家慶に後継の子供がいるものの、後の家定(いえさだ)です。病弱な将軍として有名ですね。どうも一橋家というのは、病弱な家系だったようです。家斉の子どもたちも、その多くが早くに亡くなっていますし、家慶の29名の子供のほとんどが死んでしまいます。当時の一橋家も、後継ぎ不在でした。
これは一大事です。一橋家はなくなりますし、病弱な家定では、一橋家が将軍の流れも途絶えます。
「健康で優秀な子供を養子に」と思うのは当然です。
家慶は将軍としての評価が必ずしも高くありませんが、人事では大胆な抜擢をした人でした。若くて優秀な人材を見つけると、いきなり引っ張り上げます。筆頭老中の阿部正弘は、24歳で老中になっていますからね。大胆な人事を断行できる決断と行動の人でした。
家慶が優秀な慶喜に目をつけて、一橋家に欲しがったのも納得できます。
間違いなく家慶は「次の(その次の)将軍」を見つけた! という気持ちだったでしょう。
そうなんです。慶喜はこの時点で家慶から「あんたが将軍!」とロックオンされたのです。
当然、斉昭パパも「ダメ。絶対昭致で」と言われた時点で感づいています。「いよいよ水戸藩から将軍だ」と密かに興奮したでしょう。
水戸家は、御三家御三卿の中でも、特殊でした。水戸黄門(光圀)は「天下の副将軍」なんて言われてますが、裏を返せば副将軍まで、将軍の世継ぎは出せない家だったのです。斉昭パパにとっては悲願だったのかもしれません。
11歳の慶喜は、1847年(弘化4年)12月に家慶から一文字をもらって「慶喜」と名乗ります。元服ですね。元服は11歳から17歳ぐらいに行う成人式で、このとき幼名から実名 (成人後の名前) になります。月代 (さかやき) といって、ちょんまげ用に頭を剃って、前髪を落します。
このころ、将軍家慶が尋常じゃない愛情を持って慶喜に接していたエピソードが複数残っています。
頻繁に一橋家に出入りし、例外的な特別扱いで、まるで二人は親子のようだった、と「昔夢会日記」にも書かれています。
鹿狩に連れて行ったり、慶喜の謡で家慶が踊って見せたり(緊張しただろうな)、鷹狩りを教えたりします。
極め付けは、将軍の跡取りだけが同行する特別な鷹狩りに、慶喜を連れていこうと言い出します。さすがに老中の阿部正弘は「待った」をかけます。「いや、お気持ちはわかりますけど、実の息子がいらっしゃるのに、大騒ぎになりますよ」と。家慶も「そっか、ちょっと早すぎるか」と反省します。でも、早すぎると思ったのですから「いずれは」という気持ちがある、ということですね。
家慶は「慶喜を将軍にとは明言していないだろ」とお叱りを受けそうですが、状況証拠から見て慶喜をいつかは将軍に、と思っていたのは間違いないでしょう。
さて、当時の慶喜を、現代の小学5年生と比べることは難しいにしろ、でもとにかくこの年令でいきなり日本のトップの風景を見てしまいます。人格形成としては強烈で、日本中で他の誰も経験できません。
慶喜はおそらく一生懸命務めを果たしたことと思います。務めといってもこの年ですから、将来の英才教育ですね。もともとかしこい上に、一番成長する年齢です。自分から率先して学び、かなりのことを吸収したと思います。
そして、学びを深めると同時に、幕府のトップがそんなに理想的な風景ではない、と気づきます。
慶喜は、改革好きの斉昭パパに叩き込まれていたので、「自分がもし幕府を改革するなら」という視点で、将軍と幕府を見ていたと思います。
そんなとき大奥を体験します。実は斉昭パパは「大奥の予算を削れ」と幕府に進言していた人です。慶喜はその大奥を体験して、相当あきれて、うんざりしてしまうみたいです。
水戸にいたときは、年配の女性が一人二人いるぐらいだったのが、はじめて大奥に入ると、慶喜を迎えるために廊下に美女がずらっと並んでいます。「なんだよこれ?」となります。
その後も、次から次へと大奥の女性たちが挨拶に来て、それが延々と続きます。不快なやりとりもあったようです。大奥も斉昭パパを敵視してましたから、その息子ということで、嫌味のひとつも言われて、言い返しちゃったりしたのかも。
いずれにしろ、大奥にあきれ、そこがアンタッチャブルで、幕府の老中たちよりも権力を持っている、と思い知ります。まったく別の惑星に来た気分だったと思います。
この時期の慶喜は日本のトップの風景を急激に吸収し、同時に将軍や老中でさえも幕府の改革は無理だ、と判断します。結論に到達するのが早いんです。ある意味正しかったでしょう。
幕府や将軍、ましてや大奥とは距離を起きたい、と思ったのは間違いありません。怖いというより、誰がやっても失敗するプロジェクトに関わる必要なし、と分析したのではないでしょうか。
やがて自分が将軍候補と噂されるようになると、「改革に失敗するから将軍やりたくない」という手紙を斉昭パパに送ります。この手紙の裏の心理を読む(いったん引いて見せる?)歴史家もいますが、年齢考えると、文面そのまんまの解釈でよいと思います。
ここまで書いてきて、やはり一橋家相続は慶喜の人生最大の分岐点であり、その後の起点になっていると思います。大袈裟ですが、ここが大政奉還の起点となるビッグバンで、こっから慶喜の苦悩がはじまりました。
その後も、この3つの動きが延々と慶喜周辺で起こり続けるわけです。家慶が阿部正弘になり、松平春嶽や島津斉彬、平岡円四郎、板倉勝静や永井尚志と、いろんな人が慶喜を将軍候補として推し続けます。
将軍家慶は、慶喜を将軍にすることなく、ペリー来航の時に病気で亡くなってしまいます。
ペリー来航から通商条約へ、海外列強からのプレッシャーが日本を襲います。朝廷の反発を契機にして、攘夷が活発になります。幕府の地位は急激に低下していきます。
家慶に続いて、慶喜を推した阿部正弘も、1857年(安政4年)に急死してしまいます。
ともかく慶喜は、普通の人(将軍すごい!)の目線と、明らかに違う目線です。将軍になりたくない、という周囲に理解不能な思いを抱えたまま、周囲の思惑と自分の気持のギャップが作り出す乱気流に揉まれていきます。
「慶喜は将軍になりたくなかったのか?」「いや、本心はなりたかったのだ」という議論は、これまで何度も繰り返しされてきました。
ただ、多くは「将軍になるのは当然」という前提で、「自分から言わずに周囲の動向を見ていた」または「本心を出さないのでわかりにくかった」と書いているように見えます。最後は将軍になってしまう人なので、どうしてもそこから逆算して解釈をしてしまいがちです。
でも慶喜の記録を見ても将軍になりたい、とは一言も言ってませんね。
それどころか、将軍にはなりたくない、と言ったという記録ばかりですよね。
いろいろ分析するのは勝手だけど、たまには素直に私の言ったことを受け取ってほしいよ。
歴史家だけじゃなく、幕末のやつらも、私のやったことに必ず裏があると考えるんだ。
私は、自分で書いた小説「ケイキ君と一緒!」で、「ぜんぜん将軍になりたくなかった」という慶喜を書いています。その後もこの疑問を何度も考えて来ましたが、この前提は今のところ変えていません。
そうはいっても慶喜も人間ですし、年齢や立場によって気持ちが揺れていきます。
ここでは、残っている文書や発言から、慶喜の「気持ちの揺れ」に踏み込んで行きたいと思います。
徳川慶喜は15代最後の将軍になります。それまでに、慶喜が将軍になるタイミングは、全部で3.5回ありました。13年の間に、こんなに将軍後継ぎのお声がかかる人は世界にいません。それだけでもとんでもなく面白い運命です。
「宝くじにあたるけどどうする?」と神様に聞かれて、2.5回断って、1回受け取る感じです。打率は2割9分と考えればよい打率ですが、一方で3.5度目の正直で、とうとう受けざるを得なかったと考えると、不幸な人になります。
さて、その3.5回は以下です。
0.5回ってなんだよ?という話ですが、この0.5回は将軍家茂が追い詰められて、「もう将軍はできない!」とパニックになった時です。家茂自ら「あとはミカドと親しい慶喜がやって」と指名する騒動が起こります。正式な後継ぎのプロセスではないので、0.5回としています。
今回は、このうちの最初の回を見ていきます。残りはまた後ほど。
12代将軍家慶は、かなりケイキ君を気に入ったみたいですね。将軍自ら、慶喜のところに何度も足を運んだらしいじゃないですか?
一度は「死んだ息子にそっくりだ」と言われたよ。そんなこと言われても、会ったことないし、死んだ人に比較されても気味が悪いだけなんだけどね。
息子の家定が病弱だったので周囲も「次は慶喜か?」とざわざわします。老中首座だった阿部正弘の慶喜に対する評価も高いです。この少し前には、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)も慶喜と面談して、高く評価しています。そんな周囲の高い評価もあれば、家慶もますます「次は家定より慶喜」となります。
慶喜のお父さんの斉昭パパも、「もしかするともしかするぞ!」と素振りをはじめます。いよいよ水戸家から念願の将軍誕生どあー! と密かに燃えています。
家慶が亡くなるのが1853年、まさにペリー来航の年です。この時の慶喜は17歳です。彼の耳にも「慶喜が次の将軍か?」と言う噂が耳に入ってきます。
徳川慶喜は、準備運動をはじめた斉昭パパに、「余計なことしないで」と手紙を書きます。
天下を取るなんて気骨が折れて大変です。気骨が折れるから嫌って言うわけじゃないんですけど、天下取って仕損じたら、結局天下取らないほうがよかった、ということになります。かわりに大名の養子の口なんかあればそちらの方がいいですからお願いします。
徳川慶喜公殿よりおおうちこむが意訳
さて、この文章が面白いです。
A)将軍は大変です
B)失敗したら元も子もないでしょ?
C)だったら大名の養子でよくね?
という構造です。
この手紙から、「プライドが高く、少しでも失敗を恐れる人」「幕府の滅亡を見越したクールで貧乏くじなんか引きたくないと考えた小賢しい人」と慶喜を分析する歴史書がいくつかありました。
「将軍は名誉ある地位だからやるべき」という前提がこれらの論調にはあります。変なわがまま言うなよ、と言いたいのだろうと思います。
私は以下のように読みました。
A’)将軍なんて面倒くさいだけです(かなり嫌がっている)
B’)将軍は名誉あるかもしれませんが失敗しますよ(全然適性もないし、やる気もわかないので)
C’)将軍に推すのあきらめてもらえませんか?(心底やめてほしい)
こう言っているように見えます。
慶喜のこの手紙の宛先は実の父親です。斉昭パパは、地位とプライドが高く、教育パパで、名誉欲の高い、超面倒臭い人です。その人にワザワザ書いていますので、かなり本気でやめてほしい、と書いています。17歳なりにプライドの高い父親を説得しようと試みたのかもしれません。そうなると以下のニュアンスでしょうか?
A”)幕府も大奥も面倒くさそうで、僕やる気がないんですよ
B”)やる気ないのでお父さんの期待通りにできないし、そうしてらお父さんも困るでしょ?
C”)だから将軍にするのはあきらめて
説得というか、「やりたくないのに、もし将軍なんかに推したら、オレ失敗するからね」という警告あるいは脅しのつもりだったのかもしれませんね。
この手紙の核は「仕損じたら」ですね。これが断る理由になっています。
いったい何を失敗するんですかね?
一つ言えるのは、慶喜は「将軍になりたい」と思って考えているわけではない、ということです。将軍になった「ミッション」、つまり何をするかが決まっています。
父親に「仕損じたら」と言えばわかる前提だとすると、これは斉昭パパが望んでいた幕府改革、特に大奥の改革だと推察できます。
水戸藩は江戸に近い御三家という立場で、幕府に物申す文化がありました。そんな議論を聞いていたら、改革はミッションとして強く意識したと思います。
でも、ミッションは達成できないよ、だから諦めてね、と言っています。多分、慶喜の中では即断だったと思います。悩んでいない。改革なんて自分にはできないよと判断しています。
一つ大事なのは、はじめから座って偉そうにしてるだけの将軍になるつもりは、まったくなかったわけです。自分の名誉欲を実現するための「将軍」は慶喜の中にありません。
では、なぜ、それほど将軍とそのミッションが嫌だったのか?
まず、将軍自身が魅力的に見えなかったのでしょう。
家慶は何度も慶喜の元に通いますが、その度に家慶が大声で謡をうたって、慶喜がそれに合わせて舞を舞います。そのために、この頃の慶喜は踊りの練習に相当時間を使って、体のあちこちが痛くなるレベルです。国家をどうするとか、そんな話はなかったと思われます。
「なんでこんなことやってるんだ」「将軍何やってんだよ」となりますよ。
加えて大奥を見てしまいます。大奥で年上の派手で贅沢な女性たちが見せる権力争いと、化粧の異様な匂いで、慶喜は「ダメだこりゃ」となります。
おまけに慶喜は「僕は宮家(有栖川家)の孫なんです」と言って、大奥の女性たちに笑われてしまいます。デパートの化粧品売り場の女性たちに取り囲まれて、おまけに笑われたら、そのデパート二度といきたくないです。
将軍自身も大奥の女性たちに囲まれていますし、幕府の偉い老中たちさえ、相当大奥に気をつかっているのを見てしまいます。
こんなん、とても無理となります。
この将軍周辺の風景を見た慶喜は、
「こんなことにオレの時間とエネルギー使いたくないよ」
となります。
だから、二つ目の(B)「仕損じたら」は、「大奥改革なんて絶対うまくできるわけないよ」という確信てす。嫌悪感も強いです。
では、幕府をどのくらいダメだと思っていたのでしょうか?
明治になってからの証言ですが、「幕府に衰退の兆しを見ていた」と語っています(昔夢会筆記)。
ただ、幕府滅亡後明治時代からの振り返りなので、当時の慶喜が幕府に「もう先がない」と見切りをつけていた、と言うのは言い過ぎでしょう。あくまで「ダメになっていく兆し」が見えていて、なんらかの改革は必要と思ったのでしょう。
この次の将軍後見職では、幕府の立場で奮闘する姿も見せています。幕府の一員という意識はあったと思います。
この時点の慶喜は、あくまで「自分」が成功イメージを描けないということだと思います。そんな場所で、価値があると思えない相手に時間とエネルギーを使っても、絶対うまくいかない。嫌なことをやったら失敗するのはかなり確実だと慶喜は考えています。
まあ、でもケイキ君は、いつも斉昭パパの説得には失敗しますよね?
正直、父上はもっともやりにくい相手だな。
このあとの家定殿の後継の際には、さらに苦労させられるよ。
この手紙を読んだ斉昭パパは、息子が将軍になることが幸せで、オレの行った通りに改革させるんだと疑いません。斉昭パパ自身が将軍になったつもりかもしれません。そんな斉昭パパにすれば「なにをぐだぐだ言ってるんだ?」となるでしょう。慶喜の意図は汲み取ってもらえません。
親子関係は難しいですね。父親が息子の将来に首を突っ込んでも、本人にやる気がなければ、上手く行かない方が多いんだと思います。
一回目の将軍後継ぎの打席は、「将軍なんてなりたくない」が本音で間違いないと思います。
繰り返しになりますが、「結局将軍になった」「将軍という偉い位置には誰でもなりたい」と決めつけて見ないことが大事だと思います。
後継ぎ候補と言われても、ただ座っているだけの将軍も、改革する将軍も、どちらにしてもありえないです、という手紙です。
慶喜は失敗を恐れたのではなく、ひどい場所だし、やる気がないので間違いなく失敗する前提なんでしょう。将軍も大奥も嫌で、そのポジションが魅力的に見えず、モーチベーションが湧かなかったのでしょう。
それにしても、将軍職を「嫌だから断る」と言えちゃう人は、当時かなりびっくりされただろうと思います。慶喜がわかりにくいのは「将軍」さえも、フラットに見てしまうところです。名誉欲が感じられないのも理解できないポイントで、かつ魅力的なとろこです。
社長がうらやましい、美女に囲まれた大奥がうらやましい、と思う一般ピープルにすれば、理解不能です。
最終的に「その1」の家慶の後継ぎは、噂だけでそれほど異論が出ずに、あっさり息子の家定に決まります。慶喜のためにはよかったですね。
でも、このあと5年で病弱な家定が亡くなってしまいます。その亡くなる前から、後継ぎを持つ可能性がない家定の次の将軍を誰にするか、が話題に昇りはじめます。
しかーし! 病弱で後継ぎの見込めない家定が将軍になると、やはり次の将軍は慶喜にすべきだ、という気運が再び、前よりもすごい勢いで、どんどん盛り上がってしまいます。
さすがに、この次の将軍後継問題で、慶喜の気持ちも揺れます。
徳川慶喜は子供時代にどんな教育を受けてきたのでしょうか? 「とても優秀だった」という話だけでなく、子供時代の教育が後の慶喜を作った、という視点で見ていきたいと思います。
まずは基本から。幕末の水戸藩を一言で表現するなら「教育の最高峰」です。
「水戸学」を柱にたてた藩の学校「弘道館(こうどうかん)」は、広さと対象範囲(文武、礼楽、射御、兵法、砲術、操練、数学、医学)で、日本最大規模の総合藩校でした。もちろん集めた人材もトップクラスです。慶喜の教育担当は、この弘道館の優秀な先生たちです。
慶喜の子供時代の教育について『慶喜公伝』に記載があり、茨城県立歴史館のサイトにまとめてあります。簡潔なのでそのまま引用します。
「文学を会沢正志斎と青山延光、
茨城県立歴史館 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/tanjo.htm
武術のうち砲術を福地広延、
弓術を佐野四郎右衛門、
剣術・水泳を雑賀八次郎、
馬術を久木直次郎が担当した」
体育というか武術の先生が4名もいるのが目を引きますね。
国語算数理科社会の必須科目ですが、国語はかなり徹底的にやりました。社会特に歴史は文学に含まれていたと思います。
算数は? 弘道館には図形問題や平方根について書かれた数学の教科書もありました。算数も学んだはずです。ないのは理科ぐらいでしょうか。
慶喜の勉強スケジュールはかなりハードでした。
– 起床後ただちに四書五経の復読。近侍の士が髪を結いながらその間違いを正す。
茨城県立歴史館 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/tanjo.htm
– 終わって朝食。
– 四つ時(午前10時)まで習字。
– 開館間もない弘道館(天保12年仮開館)に登館して教官より四書五経の素読の口授を受け,さらに館中文武の諸局に臨んで諸生らの修業のさまを見学。
– 正午に自室に帰り昼食。
– 午後は習字,復読。
– 夕方になってようやく遊びの時間が与えられる。遊びは「軍(いくさ)よ火事よ」と勇ましい遊びに熱中した。かなりの乱暴でいたずら者であった。
慶喜はもっとも優秀な生徒の一人でした。これはまた別のエントリーで紹介する予定ですが、馬術、銃の扱いなどはプロ並みでした。特に手裏剣は日本代表クラスだったようです。
馬術は単に乗馬がうまいとかでなく、山林を駆けめぐる実践スキルを身につけています。書道も6歳の時の書道とかが残っていますが、子供の頃からもう達筆です。
どの学校にも一人ぐらいますね。「勉強もスポーツも両方できちゃうやつ」多分、それが慶喜です。
もともと頭が良くて、徹底した英才教育ですから、その「英明」さが噂になったのもうなずけます。
武術は面白かったけど、文学は退屈ですぐ飽きて、抜け出したくなったな。
でも、ちゃんとやらないと親父が怒るんだよ。座敷牢に閉じ込められたりとか参ったよ。
ここからが本論です。今回のブログ記事は、フィーチャリング会沢正志斎(あいざわせいしさい)です。
会沢正志斎って、そんな人知りませんよ。水戸学の有名人と言ったら、藤田東湖に決まっているじゃないですか?
いったい、慶喜の先生 会沢正志斎とは何者なのか?
この人は幕末水戸学のえらい人です。弘道館の教頭もつとめた人で、斉昭パパが子供の頃も先生でした。
会沢正志斎、その教えを読むと、驚いたことに慶喜の考え方にぴったり合っているんです。それは以下の3点です。この3つはそのまんま慶喜なんです。
当初水戸学は「尊王攘夷」思想で、私は否定的に見ていました。天皇の歴史を研究した学問なので、進歩的でないと勘違いをしていました。
そもそも男性ホルモンが強すぎる斉昭パパは「外国を追い出せ!」と無謀な主張をしていて、これも慶喜とは違うよなーと思いました。
そんなこんなで、水戸藩と水戸学の教育はそんなに慶喜に影響していないんじゃないか、という見方をしていました。むしろ「水戸」は、いろいろ慶喜の足枷にさえなっている、と考えていたのです。
しかし、慶喜の子供時代の教育から「会沢正志斎」を見つけたとき、やはり「慶喜は水戸学でできている」それも「慶喜の9割は会沢正志斎」と思うに至りました。それどころか、水戸学は進歩的な思想だったと知ることになります。
私の小説「ケイキ君と一緒!」で、慶喜(ケイキ君)自身が「大政奉還は子供の頃から考えていた」と語る場面を書きました。本当は会沢正志斎をフィーチャーしたかったのですが、さすがに主人公の高校生が「会沢正志斎」を語るのはありえないので、そこはカット。
会沢正志斎は面白い人です。
会沢正志斎は(オランダ人以外の)外国人をもっともよく知る一人でした。
ロシア人のアダム・ラクスマンが根室に来ると、会沢正志斎はロシアの考えなどを調べ尽くして1801年(享和元年)に『千島異聞(ちしまいもん)』を書いています。
1824年(文政七年)には、イギリス人12人が日本に上陸します。会沢正志斎は筆談役としてインタビュー調書をとっています。これを踏まえて書いたのが『新論』です。
この『新論』は水戸学のバイブルとまで言われ、すぐに吉田松陰に伝染します。長州の人なのに六回も会沢正志斎に会っています。
その後、長州藩の志士たち、そして西郷隆盛などが熱心に学ぶことになります。幕末の志士たちは大きな影響を受けています。
新論に「国体」が取り上げられています。「国体」は会沢正志斎が最初に発表したものでした。
私はもっと古くからある言葉だと思っていました。確かに言葉そのものは古くからあったようですが、わたしたちの知る国家のあり方=「国体」は、まさに会沢からなんです。
「国体」は説明が難しい言葉です。ただ重要なので、別のエントリーとして書いてみます。
徳川慶喜が決断した「大政奉還」はまさに「国体」を守るための決断でした。慶喜の根っこです。
「国体」の提唱者が、子供時代の慶喜を教えていたのです。
『新論』という名前に注目してみます。会沢正志斎の考えは、この時代には新しいものだったのです。しかも『新論』は過激で、いったん幕府から禁書扱いを受けています。
新論を思いっきり短くまとめると以下のようになります。
日本伝統の皇国を建設した精神を「国体」とし、日本を配下に置こうと目論む欧米諸国から守るため富国強兵を行い、神道(しんとう)を国教に国民を一つにまとめる
おおうちこむの超訳
いたってまともな考えに見えます。いったい何が新しく過激だったのしょうか? 当時の人になって考えても限界がありますが、一つはおそらく「藩」から「国」へのシフトを語った点です。
それまで日本はJリーグのような、地域ごとの「藩」チームでバラバラに運営していました。レッズとかアントラーズとかが中心で、藩同士の競争社会です。まだ日本代表チームはありませんし、ワールドカップとかありません。そこに会沢は日本代表を持ち出した感じです。
「日本サッカー(国体)を定義して徹底的に強化してワールドカップで戦おう!」
というのが「新論」です。
会沢正志斎は、肖像画のイメージだと古い考え方の頑固なおじさんにしか見えませんが、外人を研究したので、「地球から日本」を考え、幕府を超えて朝廷のもとに一つになる国までを見通した人だったんです。
これを突き詰めると、幕藩体制を壊して、朝廷政権を作るということになってしまいます。また、日本を海外から守るために、海防強化を各藩に訴えたので、この点でも幕府からは睨まれました。
禁書扱いになっても、写本が噂になり、口づてにどんどん広がっていきます。やがて「尊王攘夷」思想の基礎を作るほどに日本中に広がっていきます。
もう一つ注目したのは、会沢正志斎が開国思想を持っていた、という点です。
『新論』は日本を外国から守る「尊王攘夷」思想として、吉田松陰などに伝搬していきます。多くの人にとって『新論』も水戸学も「攘夷」そのものでした。
しかし、その後会沢正志斎は慶喜が将軍後見職になったタイミングで『時務策』という文書を提出しています。
この中で会沢正志斎は、日本の守るべき「祖法(そほう)」とされた「鎖国」の方針は、別に家康の方針でも、日本古来の方針でもないよ、と言っています。
そのころ日本では、鎖国は家康以来の守るべき原則、そもそも朝廷が守ってきた国の方針だという勘違いが蔓延していました。だから外国を受け入れちゃいけないとする主張というか言い訳なのですが、
「それは全然違う、ただの勘違い」と喝破しました。
慶喜が将軍後見職になると、会沢正志斎はこの『時務策』を慶喜に提出します。まさに外国に並び立つために、開国を提案します。
この提案は、水戸学から「尊王攘夷」を学んだぞ、と勘違いした「無謀攘夷派」の人々から総スカンをくらいます。「水戸学の癖に開国とかオワコンだ」と、一気に評判を落とします。
会沢正志斎の新論の概要を知った時、あれ? どこかで見たぞ、と思うデジャブ感がありました。ああ、これって大政奉還じゃん、と思いました。
慶喜の考えは会沢正志斎とほぼ一致します。大政奉還を超訳すると以下のようになります。
外国との付き合いが盛んになるから天皇の元に各藩も国民の心も一つにして富国強兵することで外国と並び立ちましょう
おおうちこむの超訳
先ほどの会沢正志斎の「新論」とほぼ同じですね。
慶喜は子供の頃に、会沢正志斎が見ていた世界と日本をすでに教えられていました。
大政奉還という誰もが驚く決断ですが、子供の頃に習った話なので、全然想定の範囲内です。すんなりと決断します。
でも、そんなに面白い人で、慶喜の思想と一致するなら、もっと有名じゃないとおかしくないですか?吉田松陰の先生なら、もっと有名でもいいですよね? 不思議じゃないですか?
徳川慶喜の本を読み直しましたが、会沢正志斎の影響を書いている歴史家が見つかりません。さらに、明治政府を作った人たちが尊敬した吉田松蔭が師事した先生です。もっとフィーチャーされてもよさそうなものです。
会沢正志斎が取り上げられないのは、慶喜の関係記録に残っていないからです。以下が会沢正志斎が記録に残らなかった理由だと推測できます。
慶喜が残した言葉を見ていると、「過去への執着」「お世話になった人への感謝」がほとんど感じられません。多分、そういう人なんだと思います。
晩年の慶喜独占インタビュー『昔夢会筆記』でも、慶喜は基本的に聞かれたら説明する。でも過去を説明することに、あまり積極的ではありません。
渋沢栄一が企画したこのインタビューで、幼い頃の教育の影響や、会沢正志斎の影響について掘り下げなかったので、どこにもそう言った話が出てきません。
過去に執着が薄い慶喜ですから、本人の興味もなかったのでしょう。人間青年期に受けた教えについては語っても、子供時代の勉強の話はあまりしませんね。子供時代の教育は確実に自分を作っていると思いますが、改めてそこは振り返らないのかも。
歴史学としては「文書にその形跡が残っていないなら史実にならない」となりがちです。でも、記録に残っていないからって、そこで終えてしまうのはあまりに勿体ないです。
慶喜は、早くから外国を理解していて、外交を重視していました。また、国体という概念が、体に染み込んでいました。そんな尊王家なのに、天皇が外国嫌いでも狭い意味での「攘夷」とはならず、外国に対抗できる日本を目指していました。
決定的なのは、あれだけ幕府の中にいたのに、幕府政権を相対化し、新しい政治体制を見通していたことです。慶喜以外に大政奉還はできなかったでしょう。
単に「頭がよかった」では済まない、当時としては特殊な考えの人だっと思います。その特徴的な思考が、会沢正志斎とぴったり一致するのです。
慶喜はまさに会沢正志斎が作りました。慶喜は会沢水戸学の申し子だったんです。
さて、子供時代の教育と優秀さ、そして会沢正志斎の教えについてみていきました。
一方、慶喜の教育に足りなかったものはなんだったのでしょう?
水戸藩の教育で足りなかったもの、それは「経済」だと思います。
慶喜の記録を見ても、軍隊の強化については多くの資料が残っていますが、商売や貿易についてはほぼ言及がありません。
当時は、武士がお金の話を考えるなんてもってのほか、という考えもあったので、これは無理のないことです。
「もしも慶喜が新しい政権を作ったら」そんな妄想をいただいた時、そばに置くべきブレーンは、二人います。
一人は為替に強く、工業発展や株式会社創設に積極的だった小栗忠順(おぐりただまさ)でしょう。
もう一人は藍染事業の経験を持ち、海外の株式会社による経済発展に精通した渋沢栄一です。
小栗も渋沢も、すばらしい出会いだったんですけどね。この出会いが新しい時代に昇華できなかったのは、つくづく残念でなりません。
井伊直弼(いいなおすけ)が主導した安政の大獄は目を覆いたくなる酷い事件です。記録上でも死罪8名を含む118名が処罰され、御三家御三卿、大名、志士、それに朝廷までと広範囲です。
ところが、よく出てくるエピソードは、井伊直弼が大老になって、周囲が驚いたり、首をかしげてざわつく場面です。老中ではありましたが、評価は高くありませんでした。
「なんで、直弼が大老に?」となります。もし、これが意外な人事なら、この人事を主導した黒幕がいたのではないか? と考えて調べてみました。
結果的にタイトルは「釣り」になってしまいました。黒幕はいないかと調べて、茶人として一流な芸術家の井伊直弼が、なぜこんなひどいことをしたのか? 幕末にダースベイダーが生まれた要因はなんだったのか? に迫ってみました。
井伊直弼がダースベイダーなら、実はその裏に黒幕(暗黒卿シス)がいた!というのが映画の常道です。有力な黒幕は、井伊直弼を大老にした人でしょう。江戸城のシスは誰?
もともと名門近江の井伊家とはいえ、14男で藩主になる可能性は限りなくゼロだったのよ。それが大老にまでなったんだもん、私は選ばれた人間なの、と言いたいけど、でも確かに「なんで私が大老に?」と聞きたい夜もあるわね….
井伊直弼の大老就任を仕組んだ黒幕は誰なのか?と調べても、大老就任の経緯は判然としません。ここは歴史の空白地帯なので、ならばそれを埋める「物語」が進入できます。
大老は常設ではありません。前任者の超若手エリート阿部正弘、その後の堀田正睦(まさよし)も老中首座です。
前任者が井伊直弼を推したのでしょうか? いいえ、阿部も堀田も井伊直弼を大老候補とは思っていません。それどころか老中筆頭の堀田正睦は福井藩松平春嶽(しゅんがく)、当時は慶永(よしなが)を大老に推挙します。
この時期、堀田は日米修好通商条約調印のため、朝廷から勅許を得るために京都に行きますが、見事に失敗してしまいます。京都から江戸に戻り、この政治危機を乗り切るためには松平春嶽を大老にと13代将軍家定(いえさだ)に進言します。
井伊直弼の大老就任は1858年(安政五年)4月23日ですが、そのほんの数日前の出来事です。
前任者さえ驚く人事なら、いったい誰が井伊直弼を大老に推した黒幕なんですか?
極めて明確よ。大老の任命権は将軍家定殿。上様が宣言しなければ私なんか大老になれないの
ただ、家定は障害を患い、脳性麻痺とする説もあります。家定の独断かどうかが焦点です。
家定の任命権に影響を与えられる立場から、以下の3名が有力候補です。順番に見ていきましょう。
複数の歴史書が、井伊直弼を大老に推したのは、アンチ慶喜つまり南紀派のリーダー格である松平忠固であると書いています。水戸の常盤神社の資料などが根拠になっています。
その資料によれば4月22日、まさに大老就任の前日に、松平忠固が井伊直弼に「大老になってほしい」と強く進言しました。
「なんだ史実ならそれで終わりじゃん」となりますが、私はこの説は、水戸の忠固憎しの陰謀論(思い込みの噂)が記述されたものと疑っています。
大老就任後、ほどなくして井伊直弼は松平忠固を老中から罷免しています。自分を大老に推した人を、直後に罷免するのは考えにくいです。
また、忠固研究の第一人者の関良基氏は、忠固が南紀派ではなかったことを突き止めています。
私は松平忠固を尊敬しています。類まれな経済センスを持った、裏表のないリーダーなんです。そして、慶喜ファンクラブの松平春嶽、対立する南紀派からの賄賂工作も、いずれも拒否しています。政治工作をする黒幕なんかじゃないです。
松平忠固は、米国公使ハリスとの条約交渉に集中していました。その結果、日米修好通商条約で関税20%を勝ち取っていて、これは忠固の功績です。これも関良基氏の書籍からですが、教科書などで外交に無知な幕府が結んだ不平等条約とさんざん習ってきましたが、調印時点では不平等条約ではありません。後の改正で英国によって不平等な5%に改悪されてしまいます。そんなわけで、忠固は当初、将軍後継ぎ問題は中立の立場でした。
そして、井伊直弼の大老就任直前、忠固は「慶喜擁立」で大奥を調整したようです。これを聞いて慶喜ファンクラブが大喜びした(ただし慶喜以外)、という記録さえあります。
私は条約交渉が進展した段階で、忠固は調印後を考えはじめたのではと考えています。朝廷交渉と外交を考えれば、母親が天皇の親戚で、かつ外国と対峙できる徳川慶喜は、理想的な将軍に見えたはずです。忠固は、この時点から、将軍後継は徳川慶喜という線で反対する大奥を調整しはじめた、と考えています。
にわか喜びした慶喜ファンクラブですが、井伊直弼の大老就任で一気に形勢逆転をされてしまいます。慶喜将軍がほぼ決まったと思っていたので混乱し「松平忠固に騙された!」となり、忠固を「隠れ南紀派」とレッテル貼りして陰謀説が作られました。まさか任命した家定を悪者にはできませんので、忠固を責めるしかおさまりがつかなかったのでしょう。
いずれにしろ、松平忠固は他人を騙して政治工作する人ではありません。ましてや井伊直弼とは、条約の朝廷対策の方針で完全に対立しています。井伊直弼は外交より国内事情優先、一方の忠固は外交重視で、条約調印は幕府の専権事項で勅許は不要と考えていました。
この二人の行動原理は根本から違うのです。
これが物語として、もっともわかりやすく、かつ説得力があります。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」はこの説をとっていて、見事だと思いました。
ドラマの家定は、父親の徳川家慶が自分を差し置いて、「慶喜」の名前を連呼して褒めまくりましたから、慶喜憎しで慶喜ファンクラブは絶対排除したいと考えています。そこで反撃に出て、自ら井伊直弼の大老就任を決断します。
ドラマでは家定が亡くなる病床でも、井伊直弼の襟をひっぱり「いいな慶喜と水戸だけはなんとしても排除しろ」と言い残します。死ぬ間際の将軍命令です。これを遂行するのは自分しかいません。そして井伊直弼がダース・ベイダー化していきます。見事な脚本だと思います。
ところでその家定の判断力はどうだったのでしょうか? そこが家定説の焦点です。また、それまで政治介入を控えていた家定が突然、重要人事をひっくり返すのはどうなのか? やや、疑問が残ります。
家定に仕えた小姓の証言では、家定の障害はそこまでひどくなく、十分判断力があったと書かれています。体が痙攣することや、疱瘡によるアバタ痕がひどかったため、人前に出たがりませんでした。そのため、悪い噂が多くありました。
ただ、彼の残した文書を見ても、幕府の閣僚たちの政治判断を尊重しつつ、「奥向き」つまり大奥の意向を気遣い、バランスを取ろうと腐心している人だということがわかります。
家定が判断力のないほど脳に障害があった、という説はそろそろ排除されるべきだと思います。
じゃあ、家定単独決断説でいいように思いますが、私は家定の慶喜憎しはなかったと考えています。
松平春嶽の福井藩資料に、家定自身は後継ぎに明確な意向はなく、家定自身も大奥が難色を示しているので困っている、という状況が記録されています。忠固も家定の意向が慶喜でも問題ないので、あとは大奥の調整だけ、と考えて進めていたようです。
繰り返しますが、大老人事は家定の決断で間違いありません。
ただ、私は家定の慶喜憎しはなく、バランスを取る家定が、老中の意見をひっくり返してまで、大老人事を決断した背景に、何か別の要因があると考えています。
これもかなり説得力があります。
当時家定は人前には出たがらず、乳母の歌橋と一緒にいる時間が多かったようです。
そして、実母の本寿院、篤姫指導役の瀧山など、大奥の有力者たちは水戸斉昭(なりあき)が大嫌いでした。
斉昭パパが大奥のアイドルだった女性に手を出したため、最悪なセクハラ親父と憎まれました。また、斉昭は大奥の膨大な予算を削減しろ、と声高に主張していました。斉昭パパは、大奥の敵ですから、全力で息子の慶喜ファンクラブをつぶそうとしていました。当然、家定への影響力も絶大です。
家定の大老人事は、大奥の執念深い説得の結果と考えれば辻褄は合います。私は家定単独決断以上に、このチーム大奥の執念というシナリオが、一番物語として説得力があると考えていました。
しかし、家定のその他の決断を見ていくと、もちろん「奥向き」への配慮は見せつつ、政治はあくまで閣僚たちの判断を優先する姿勢が見えます。将軍の役割をきちんと考えていた人に見えるのです。
もし、そうなら政治と大奥の間に、線が引ける人だったと思います。
もうその他の候補がいないのであれば、大奥と家定の決断ということで決着したいのですが、どうも気になるのです。
私自身「黒幕」に拘泥して見逃していましたが、単純に井伊直弼自ら家定を説得した可能性があるのではと考えはじめました。
これまでの説は井伊直弼はあくまで受け身で、本人もビックリの仰天人事というトーンでした。
しかし、その後の安政の大獄を見れば、かなり決断力があるキャラクターです。大老就任直後に、素早い人事通達を発令しています。ここで忠固もいったん降格されています。そうした矢継ぎ早の決断を見ても、十分心の準備があったと考えていいでしょう。受け身なキャラが豹変したとは思えないのです。
井伊直弼が権力欲と保身のためだけに安政の大獄を起こした、とも考えていません。むしろ、彼なりの政治美学の追求が根底にあったと思っています。
茶人としての極め方を見ると、美を追求する完璧主義者です。アーチストは、美を追求した自分の作品が悪く批判されると、もうとんでもなく傷つきます。
少しでも自分が極めたものを傷つけたり、脅かすものがあれば、耐えられない嫌悪で排除しようとします。そして、繊細さと弱さも併せ持ち、他人に対して極度に疑い深くなる面がありました。
ダース・ベイダーも、フォースを極める完璧主義者が、より強くなるために、かえって自分の弱さに取り憑かれて、ダークサイドに一気に落ちていきます。余計なことですが….
リーダー格の忠固が慶喜擁立で調整をはじめ、一方で老中筆頭の堀田が朝廷工作に失敗したのを知ったら、これは危機的な状況です。なんとかしなければいけません。幕府のご政道を極めるのは自分だけだ、という使命感を井伊直弼が持ったとしたら?
「息子慶喜を将軍に」なんて私利私欲で凝り固まった斉昭パパは、井伊直弼から見たら、政治美学を汚す最悪の敵に見えます。
以下はまったくの私の仮説ですが、家定と井伊直弼の間で、以下のようなやりとりはあってもいいはずです。
「上様、朝廷からの勅許が得られず御公儀(幕府)は危機的状況です。その上、忠固は御政道を私欲で曲げる斉昭、その斉昭と結託した春嶽に擦り寄っています」
「確かにそうだ」
「まして春嶽は上様のことを『凡庸の中でも最も下等』などと酷評しています。春嶽を大老になど言語道断です」
「どうしたらよい?」
「上様、私自身の身など惜しくはありませんが、御公儀と徳川宗家が大事です。ここは創業以来の祖法に従い、家柄と血統重視で後継と大老をご判断ください。私は上様のために命を捧げます」
考えてみれば、井伊直弼が大老になるのはまったく不自然ではありません。近江の井伊家は越前福井の松平家よりも家格が上です。幕府の御政道を重視する守旧派から見れば、むしろ順当な人事です。
家定が井伊直弼の使命感を理解したなら、家格から井伊直弼を推すでしょう。さらに井伊家には、京都朝廷との親密な関係がありますから、その意味でも井伊直弼は適任です。
それに比べて春嶽は大奥からも評判が悪く、家定の悪口を公言していますので、そんな人事はもってのほかです。その上、堀田は数万両をつぎ込んで朝廷工作に失敗したのですから、まったく老中としての職責を果たせていません。
家定も当初は閣僚の判断優先、という君主の姿勢でした。ただ、後継問題の紛糾と孝明天皇の抵抗という危機的な状況は幕府の有事です。井伊直弼の使命感を受け止めて、将軍として決断する時だと判断します。
「家柄からも人物からも井伊掃部頭(かもんのかみ)を差し置いて、越前松平にする理由がない。近江井伊直弼に大老を申し付ける」
井伊直弼の大老就任の決断を堀田に伝えます。堀田は驚愕します。
同時に大老になった井伊直弼の提案を受けて「後継問題も原則に立ち返って血統重視で行こう」と、紀伊の慶福(よしとみ)様=家茂(いえもち)にするよう命じます。期待値マックスだった、一橋派が驚愕します。
私の思いが通じて家定様に決断していただけた。私は将軍家定様に命を捧げるつもりだ。
幕府の御政道を正せるものはもう私しかいない。
私利私欲から朝廷と結託する水戸とその一派は、徹底的に排除する!
井伊直弼の功績として、彼が開国主義者で条約調印したことを挙げる場合がありますが、井伊直弼は滋賀県で京都朝廷に近い関係があり、朝廷の承認は絶対に必要と考えていました。
しかし、ハリスとの交渉もこれ以上遅らせるわけにはいきません。「とにかく遅らせろ。本当に止むを得ない場合だけ調印していい」と現場に命令しますが、直弼以外は、もうこれ以上伸ばす必要はないと判断して後半だけ聞いて調印してしまいます。これで直弼は政権内で完全に孤立してしまいます。
その後、井伊直弼は、無勅許調印を主導したとして、堀田正睦と松平忠固を家定命令で罷免します。ここで家定は、直弼の意向を優先しつつ、忠固を本当に辞めさせていいか、差し戻してバランスを取ろうとしています。
朝廷と攘夷派と一橋派の非難が激しくなり、この二人を罷免すれば、もう大老の自分が傷つくわけにはいきません。ここで大老が間違いを認めたりしたら、家定と進めている御政道は完全に崩れてしまいます。
孤立した井伊直弼は、水戸が裏で朝廷を操作する陰謀を進めているんだ、とどんどん疑いが深まっていきます。
いよいよ直弼の弱さからくる横暴さが出てきます。自分は悪くない、悪いのは….
ダースベイダーが登場しますが、彼なりに政治美学を追求した結果です。起こるべくして起こったこと……
ほんと余計な話なんですが、井伊直弼と堀田正睦はラブラブです。新人で何かと未熟な井伊直弼を、堀田はずっとメンター社員として助けてきました。なので井伊直弼は堀田LOVEです。
ただ、朝廷の勅許をもらえない失態が明らかになると、将軍家定が堀田は辞めさせるべき、と主張します。井伊直弼はこれを何度も押し戻して抵抗しますが限界がありました。
「自分が大老になれば堀田を守れる」と井伊直弼の大老就任の20%ぐらいは、堀田を守るためだったかもしれません。将軍命令なので堀田を処罰しつつ、復帰可能な程度に軽く留めています。この二人の愛のストーリーは、幕末のサイドストーリーとして、短編を書いてもいいんではないかと思ったり。
すいません、タイトルは完全に釣りになってしまいました。謹んでお詫びします。
暗黒卿シスみたいな黒幕なんかいなくて、井伊直弼自身の御政道に対する使命感を、家定が受け止め、大奥もそれでばっちりです。守旧派の御政道から見れば極めて順当人事という結論でした。
そして、井伊直弼の御政道に対する使命感が半端ないので、家定と幕府を守るため安政の大獄に突き進む、という結論です。
あえて言えば、金属疲労した幕府という入れ物そのものが「黒い幕」として作用したと言えます。陰謀論の実態は、特に日本では、多くの場合こんな展開だろうと思います。
シスやフリーメーソンみたいな黒幕が世界を操っているという陰謀論は、私も大好物なんですが、実際はどうなんでしょう。
いや、いいんだけど、私は関係ないんだけどな。将軍になりたがってないのに、みんな私を巡って喧嘩はじめちゃうし、私は家定のことも悪く言ってないし、なんでこうなるんだ?
いやー、ホントですよね。これだけ優秀な人たちが、それぞれの決断をしていく中で、結局最悪の方向に行ってしまいました。そしてなぜか20代の慶喜を巡って、渦が変な方に回っていきます。
幕末って、だいたいケイキ君が渦の中心になって、最悪の方向に進むという連続です。なぜかケイキ君が巻き添えを食ってしまうのです。その流れ、すべてはここからはじまっています。
ホント歴史を巻き戻したいです。
徳川慶喜は大老の井伊直弼(なおすけ)を本社の江戸城で叱りつけます。井伊直弼は畳に額を擦り付けて「恐れ入り奉りまする」とひたすら謝罪を続けます。この対決は、13代将軍家定(いえさだ)の後継ぎを狙った行動だ、という解釈もあります。
1858年(安政五年)の6月に大老井伊直弼は、天皇の許可を取らずに日米修好通商条約を締結してしまいます。無勅許(むちょっきょ)調印です。
6月23日、これに怒った慶喜は江戸城でチャカポン井伊直弼と初対面して抗議します。そしてこれが、徳川慶喜の政治の表舞台へのデビュー戦となりました。場所は慶喜のオフィスの大廊下上之部屋(おおろうかかみのへや)です。この部屋は忠臣蔵であまりにも有名な松の廊下の奥にあります。
翌日の6月24日は、斉昭パパ(なりあき)と福井藩主松平春嶽(しゅんがく)=当時は慶永(よしなが)が、無理矢理本社に塔城して、井伊直弼を叱り飛ばします。
この1週間後には13代将軍家定が亡くなります。家定はもともと体が弱かったと言われていますが、幕府ワイドショー的には将軍後継ぎ問題が最大の注目点でした。
斉昭パパと松平春嶽は、無勅許調印を糾弾したのと同時に、この混乱の中、次の将軍を決めるのは延期しろ、と要求します。これ「オレの息子を将軍にしろ!」と言っちゃってますね。
慶喜はどうして抗議したかって? そりゃあ、斉昭パパと同じで、条約の調印に怒ったふりして、あわよくば自分が将軍になろうとしたんじゃないの?
なんでそんな話になるかな。私が井伊直弼に抗議したのはそこじゃない。
それに親父殿とは特に結託していない。
慶喜対井伊直弼のやりとりはこんな感じでした(思いっきり端折ってます)。
場所は慶喜の執務室なので、家の格が上の慶喜が一段上に座って、井伊直弼は畳にいたと思われます。若造の上から目線での不利な体制で、井伊直弼がどう受けるのか注目です。
慶喜「米国との条約を無勅許調印したが、それはいいとして、その後天皇にちゃんと説明したか?」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「言語道断、ちゃんと説明しなきゃだめでしょ?」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「まず使者をたてて、できれば大老自らミカドのところに行って直に説明しなさい」
直弼「恐れ入り奉りまする」
慶喜「恐れ入ってばかりじゃわからん。ところで将軍後継ぎの方は決まったのかなー?」
直弼「恐れ入り….. それは慶福(よしとみ)様に決まりました」※慶福=14代将軍家茂(いえもち)
慶喜「それはよかった!すぐに公表してくれ」
直弼「今回は惜しくもはずれましたが、次回はぜひ一橋様にと…..」
慶喜「ふふん」
井伊直弼はゴングとともに、姿勢を思いっきり低くして、いわゆる「ノーガード戦法」で相手の撃つ気を削いでいます。これは一見負けているようですが、よく考えられた高等戦術です。
一方の慶喜は「ミカドにちゃんと説明しろ」という正論でパンチを繰り出しますが、すぐにひっこめてしまって、お世継ぎ問題を付け足しのように、さらっと確認します。
刑事ドラマだと、最後に「ついで」に聞く質問が、実は重要な鍵を握っています。慶喜さんも最後に「ところで」と聞いているその質問こそが、本当に聞きたかったことなんでしょ?
やっぱり次の将軍が、自分になるかを確かめたかった? ですよね?
だから違うってば。かなり近いんだが、実は思いっきりはずしているんだ。
もう少しがんばれ
ここは少し余談ですが、この世紀の対決の最後が「ふふん」で終わった、という点に私は注目しました。こういう小さな違和感が、事件推理のヒントになります。
この場面を描いた小説や漫画は、「ふふん」だと場面が締まらないので、余計なセリフをつけてしまっています。大好きな漫画「風雲児たち幕末編」15巻でも「ここな俗物めがー!」と慶喜が叫んでいます。「オレを馬鹿にするな」と慶喜が切れるという展開です。
しかし、ここは「ふふん」が事実だったんです。
慶喜は「そもそも条約を結ぶこと」に反対していたのか?
ここは反対していません。そもそも幕府が決めることだと考えていました。慶喜個人もどちらかといえば条約には賛成だったと思います。
条約締結で「事前に天皇の許可を得るべきだったのか?」
この点も慶喜は抗議していません。アメリカという特別な相手がある話なので、ミカドに許可をもらえない場合あっても仕方ないだろう、というスタンスです。
慶喜が怒ったのはミカドに対する「フォローアップ」です。
井伊直弼は条約を結ぶと、そのことをメール、つまり飛脚の宿継奉書(しゅくつぎほうしょ)という速達で知らせました。メールのテヘペロで報告して、それで終わりです。
その後もまったくフォローなし。これは天皇に対して失礼すぎますよね?
これで慶喜は怒ります。誰も言わないんなら、オレが言うと、わざわざ抗議に出向くわけです。
この時、慶喜数えで21歳、満だと20歳です。
最初この下りに触れた時、わかりにくい怒り方だな、と思いましたが、よく見直してみてちょっと驚きました。あまりに線引きがしっかりしているのです。とてもハタチのボンボンの判断ではありません。
「尊王」「大政委任」「外交重視」この3つは慶喜の政治の根本原理でもあり、その後も一貫しています。そして、この3つのポイントの根底に「国体」が最重要だという信念があります。
「国体」という言葉を私たちは習いませんし、使いません。戦争の苦い経験とか、そういう埃がかぶっちゃってるので理解も説明も難しいです。ただ、とにかく慶喜は一貫して「国体」を守る、という揺るがない基準が根底にあります。
もう本当すごいな、と舌を巻きましたよ。水戸藩の教育がしっかりしていて、同時にそれを学ぶ慶喜も、何が正しいかをしっかりわかっている人なのです。人から言われたからとか、そんなことでぶれたりしません。
ここからは私の仮説です。
慶喜にも、この抗議を急いだ理由がありました。それはまさに将軍後継ぎ問題です。
でも自分が将軍になりたい、という理由ではありません。逆です。自分を将軍に、という斉昭パパの親バカ暴走を止めたかったのです。
斉昭パパは「尊王攘夷」思想の神として尊敬されてた面もあり、一方で評判がよろしくないですよね? 過激発言で注目を浴びて、やがて言ってること無茶苦茶じゃんってなるタイプですかね? 炎上YouTuberならいけそうですが、それにしても、ケイキ君と全然タイプ違いますね?
以前も親父に「いい加減にしろ」と注意をしたんだ。自分の主張を持つのはいいけど、直接朝廷と幕府批判を展開したり、周りがその度に迷惑するんだ。
息子を将軍にと親バカな夢を持つのは勝手だが、さすがに大老に抗議するのは止めたかった。
ここで慶喜がとった作戦が以下です。こんなだと慶喜らしいし面白いんだけどな、という仮説です。
慶喜は、チャカポン井伊直弼への抗議は表面的に「やりましたからね」という程度にとどめて、後継問題がすでに決まっている、という点を「ところで」と言いながら、しっかり確認しました。完全にミッションコンプリートです。
井伊直弼から「その次の将軍は一橋様に」と言われても、「ふふん」で終わったのは「もうミッション終わってるし、別にそこ違うんだけどな」という態度だとしっくりきます。
ただミッションは終えましたが、作戦は裏目に出てしまったのです。残念ながらこんな作戦で、斉昭パパの親バカは止められませんでした。それどころか「息子が行ってダメならオレが」とさらに親バカな情熱の火に油が注がれてしまいました。
そして、なんと作戦が裏目に出たどころか、最悪の展開です。
この一連の抗議行動が引き金となり、誰も予想しなかった安政の大獄へと突き進んでしまいます。チャカポン直弼の内なるダースベイダーを覚醒させてしまったのです。
こんな抗議しなけりゃ、もうどんな罪も帰せられないんですが、抗議したばっかりに井伊直弼に罰せられてしまうのです(もちろん、無実は変わりませんが)。
慶喜の怒り方一つとっても、線引きがしっかりしている点がわかります。
でも、一方でストレートな感情表現ではないので、わかりにくいです。将軍に興味がないから何もしない、という態度ならその後の展開は違っていたでしょう。
後世の僕らはどうしてもわかりやすいストーリーにあてはめたがりますが、「わかりにくさ」が首を傾げさせて僕らを複雑骨折させます。
同時に好きになると沼が待っています。「いや、本当かどうかわからないのに時間使うなよ」と他人から笑われそうな沼に、私もはまっていきます。いいんです。
それとこの小さな政治デビューの場面にさえ、その後の展開の共通項を見ることができます。
作戦完璧 → 現実はずれる → 最後がうまくいかない → むしろ裏目 → いや最悪の展開に…..
というのは、この後も慶喜の人生にも起こります。
かの有名な「安政の大獄」1859年(安政6年)です。当時、徳川慶喜は、御三卿のひとつ一橋家を継いでいましたが、チャカポン井伊直弼(なおすけ)から隠居謹慎を命じられます。いったいその罪と罰は何だったのでしょうか?
日本史の教科書では安政の大獄で死罪になった吉田松陰(しょういん)や橋本左内(さない)が主役ですが、井伊直弼が排除したかった標的は、徳川慶喜親子と慶喜ファンクラブの面々、いわゆる一橋派でした。
チャカポン井伊直弼から言われたのは「隠居謹慎」だ。死罪獄門の次に重い刑罰だ。親父は「永蟄居」。親父には「謹慎」がなくて、私には「謹慎」だ。そもそもは親父が原因の事件だろう? しかも、親父はそんなの無視して気ままに振る舞ったらしい。相変わらずだ….
まず徳川慶喜に下された刑罰から。
刑罰は「隠居謹慎」です。家の中でじっとしてて動くなということだから、相当厳しい罰です。
将軍家定の命令として、まず7月5日に登城停止処分、続いて8月27日には隠居謹慎が命じられて、謹慎生活がはじまります。でも、将軍家定は7月6日に亡くなっているような状態です。将軍命令はありえないわけで、完全にチャカポン井伊直弼が決めています。
井伊直弼が水戸藩浪士などに暗殺された「桜田門外の変」は1860年(安政七年)のひな祭り3月3日、今だと4月、春の季節外れの大雪で江戸は一面真っ白でした。暗殺後もその年の9月4日まで謹慎は解かれず、ダラダラと続きます。
なんと蟄居謹慎期間は374日間、一年を超えています。(日付の引き算あってますかね?)
このとき慶喜は20代の前半です。そんな青春真っ盛りに一年以上謹慎ですよ? 信じられますか? そんなに悪いことする人には見えませんが、きっと魔が射したんでしょう……
刑罰の方はかなり重いことがわかりました。でも肝心のその根拠となる罪状の方は?
慶喜の前に斉昭パパから行きます。
同じ日に罪を犯した斉昭パパは「不時登城」を理由に罰せられます。これは本社に行く日が決まっていたのに、違う日に出社したから「その罪は重い!」ということです。
最初「不時登城」の罪だと聞いたときは「え?それ罪なの?しかも重いの?」と面食らいました。
でも、ルール違反はその通りなので、理由はわかりました。
問題となった事件現場は江戸城、事件の経緯はこうです。思いっきり端折ります。
大老に成り立ての井伊直弼を、斉昭パパと福井越前藩主の松平春嶽(しゅんがく)=当時は慶永(よしなが)がよってたかって問い詰めました。表向きの理由は1858年(安政五年)の日米修好通商条約を天皇の事前の許可なく調印したことへの抗議です。
でも斉昭パパには裏の目的がありました。井伊直弼を糾弾して、息子の慶喜を次の将軍に押し込むぞと考えていました。松平慶永も慶喜ファンクラブ会長です。
そして翌月にこの「無勅許(むちょっきょ)調印」に激怒した天皇から、怒りの戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に出ます。
天皇から直接水戸藩に勅を出すなんて、あってはならないことでした。これは天皇の意志ではなく、きっと黒幕がいるに違いない。「そうだ!斉昭一派の陰謀だ!」とチャカポン井伊直弼がワナワナと震えながら怒りまくります。安政の大獄という弾圧劇場がはじまります。さあ、ダースベイダーのマーチをお願いします。
これ以上書くと長くなるので、大事なのは斉昭パパじゃなくて慶喜の方です。
慶喜の罪状がはっきりしません。幕府からの通達は「とにかく慎め」ということで罪状が書いてありません。そこで「身に覚えがないし、何の罪ですか?」と確かめると、「そんなに長くないから、上からの言いつけだし謹慎しといて」という回答だけが返ってきます。ひどいですね。
完全に冤罪、真っ白な無実だよ。せっかく真摯に忠告してあげたのに。オレにアドバイスしたから重い罪だなんて、どんだけ小さいやつなんだ。
慶喜は「不時登城」ではありません。
斉昭パパが井伊直弼に抗議した前日に、慶喜も井伊直弼に初対面して糾弾しますが、なにしろ慶喜のいる一橋邸は江戸城本社内ですし、その日は御三卿の本社出社日でもあり、ルール通りです。しかも事前にチャカポン直弼に「どこで会う?」と断ってから会っています。
あまりに理不尽なこと言うから、あきれて大笑いしたくらいだよ。抗議するのも馬鹿らしくて、腹いせにまじめに謹慎してやった。
いや、ケイキ君、「腹いせに謹慎」って、それ考え方おかしいでしょう? しかも一年以上、日光のない真っ暗な部屋でじっとしていたら、確実にビタミン不足で体調壊して、筋肉も衰えて、メンタルもやられてしまいますよ
慶喜本人は、かなり真面目に謹慎したという記録になっています。
自分の部屋で雨戸まで閉じて、5-6センチの隙間からわずかに陽が入るだけの中でじっと座ったままでいます。暗くしてるので本も読めません。
「長髪にてござあそばさるべし」という「武田鉄矢のモノマネやってろ!」という命令なので、伸びる髪の毛を切ることも剃ることもできません。
人に会うのは厳禁で、家来も国に戻せとのことなので、側近でバディの平岡円四郎も「御役御免差控」という罰で実家に帰ってしまっています。話し相手もいません。
しかも、この時期の最初と最後に、実の子供と斉昭パパの死という家族の不幸が交錯します。
1858年(安政五年)7月16日奥様の美賀子(みかこ)さんが女子を出産しますが、20日には亡くなってしまいます。斉昭パパは1860年(安政七年)桜田門外の変の少し後、8月15日に永蟄居のまま亡くなっています。
井伊直弼も暗殺されていないのに、慶喜の謹慎はまだ解かれていません。お父さんの死には立ち会えなかったとのことですが、お葬式にも行かなかったということでしょうか?
20代前半でこれはダメージが大きいです。私なら、かなりメンタルがずたずたになって、その後も大きな影響があると思います。
この井伊直弼による弾圧、歴史書でも「将軍後継候補の争いは一橋派の完全敗北」と説明されたりしますが、私は深く入れば入るほど慶喜にとって重要な場面だった、という気がしています。
二つの視点があります。
長期の謹慎が蝕んだ心身への深い傷
一つは、一年以上の蟄居謹慎という陽の光も不十分な、不自由な生活が与えるダメージです。
英明で健康、元気はつらつな若者です。おそらく今の時代に健康診断すれば、血液検査でひっかかって、メンタル的に治療が必要な状態になっていてもおかしくありません。
あとの慶喜の行動を見ると、心配になるぐらい躁状態が激しかったり、鬱に入ったりを思わせる状況が出ているように思います。
関連があるかはもちろんわかりませんが、やがて神経衰弱でアヘンを飲んで治療する事態になります。
もう一つ、自分の後継ぎ問題のせいで多くの人が事件に巻き込まれた、という現実を慶喜はどう受け止めたのでしょうか?
一方で、自分がじっと謹慎してたら、井伊直弼を大雪が消してくれた、という変な成功体験ができてしまいました。
どちらも無意識のうちに、その後の判断や行動に影響を与えているのではないでしょうか?
もしも慶喜が井伊直弼を本気で叩いていたら....
もう一つは歴史の「もしも」です。
どうせ井伊直弼に怒るなら、徹底的に叩いて排除するべきだったのです。斉昭パパがもっと熟練した政治闘争のできる人だったら、この時に井伊直弼を政治的に弱体化、あるいは排除できた可能性はあったでしょう。御三家と御三卿ですから、十分それが可能でした。
もちろん24歳の若者が、大老に本気で政治闘争を挑むなんて無理な相談ですし、慶喜は地位を利用して大老を叩くなんて絶対にしないでしょう。何より、目の前の太ったおじさんがまさかダースベイダーだとは思わないので、無理な相談なのはわかっています。
でも、、、と大の慶喜ファンとしては、うじうじ考えてしまうのです。もう一回、ここに戻れないですかね?
安政の大獄も桜田門外の変もなく、橋本左内が生きていたら、時代は全然違う方向に回っていったはずです。歴史の大きな分岐点ですし、慶喜は「もしも」ができる立場ではあったのです。
安政の大獄とチャカポン井伊直弼については、まだ書きたいことがあります。次は
「なんでそもそも慶喜は井伊直弼に怒ったのか?」
という疑問を書いてみようと思います。
ところでさっきから、そのチャカポンってなによ?
人を気安く、失礼なあだ名で呼ぶんじゃないのよ。ひどいったら….
余談)井伊直弼のチャカポンというキュートなあだ名ですが、これは家でぶらぶらしていて、チャ(お茶)カ(歌)ポン(ツツミ太鼓)に打ち込んで暇してるやつ、という意味です。兄がいたので、まさか自分が井伊家を継ぐなんて思ってもいなかったので、お茶、歌、狂言など芸術面に打ち込み、レベルの高い仕事を残しています。
井伊直弼のもう一つの顔は、美を愛する繊細な心を持った本格的なアーティストです。「一期一会」はチャカポン直弼が書いた茶道本「茶湯一会集(ちゃのゆ いちえしゅう)」の序文で使われました。
「どんだけー♪」というほど意外です。そして人間って、ホント怖いです。
歴史において「名前」はちょっとした深い沼です。
徳川慶喜の名前と呼び方について調べて整理してみました。なにしろいっぱいあって混乱します。現代の常識やルールとはぜんぜん違うので、理解するのが大変です。
呼び名やあだ名がいっぱいあるので、最後に「おまけ」として一覧表を作ってみました。すばやく確認したい方は一番したの表を見ていただくとよいと思いまする。
歴史を学ぶ際に「え?」って思うのは、同じ人なのに名前が違うというやつですね。だって、桂小五郎(かつらこごろう)と木戸孝允(きどたかよし)が同じ人なんですよ。「なんじゃこれ?」って混乱します。
歴史小説を書き始めようと思って、いきなりこの名前問題にぶちあたりました。なにしろいろいろあるので迷う迷う。さらに慶喜はその沼が深い!
前置きはこのくらいで、さっそく行ってみましょう。
そもそも「ホントの名前で呼ぶのは失礼だし危険という文化=諱(いみな)」があったわけです。私たちの「本名」が、親しい人だけ限定のコードネームというわけで、「なんのための名前なの?」と叫んでしまいます。幕末はそこんとこ、どれだけ厳しく考えていたんでしょうね?
これは子供時代の幼名です。童名(わらべな、わらわな)とも言いますが元服前の名前です。
お父さんの徳川斉昭(以下斉昭パパ)は、長男を除いて男の子供を番号制でつけていきました。
斉昭パパには37人(すごい!)の子供がいます。男の子22人(サッカー2チームw),女の子15人で、七郎麻呂は7番目の男子です。まあしかし、エネルギッシュな方ですね。
この時代、子供の名前はどうせ元服で変わるので、番号制でつける武家は多かったと思われます。確かに子供が多いと、親でさえ混乱しそうです。
慶喜は7番目の男の子なので「七郎麻呂」、10を超えて悩んだどうかは知りませんが、11番目は「余一麻呂(よいちまろ)」、20番目は「廿麻呂(はたちまろ)」、21番目は「廿一麻呂(はたひとまろ)」です。
こっからはあまり知られていませんが、慶喜の正式な幼名は「松平七郎麻呂」なんです。
出た!松平。「あっちもこっちも松平♪」って髭ダンのメロディが…..
松平姓を見るたびに頭で鳴るので困ります。でも同居家族に徳川と松平がいるんですか?
将軍家、御三家、御三卿の嫡男だけは徳川が名乗れるけど、それ以外は松平らしいよ。
あと越前とか会津の親藩とか特別な部下だけは名乗れる。徳川と松平の高級ブランド化だな。
茨城のお菓子屋さんが「七郎麿ポテト」というお菓子を販売しています。大河ドラマ「青天を衝け」で爆売れ、かどうかは知りません。まだ食べたことないです。おいしそうです。
出た! わけわからないやつ。こんなん知らないよ。慶喜本でもあまり見かけないような。
8歳のころ水戸藩藩主の斉昭パパから昭の字をもらって昭致(あきむね)です。一橋家を継ぐことが決まってから、実際に継ぐまでの名前ですかね。期間が短いです。
その8歳の時、同時に字として子邦(しほう)、号として興山(こうざん)を授かりました。字とか号とかは、書とか歌とかの時に使う便利な呼び名、ペンネームでしょうか。ちなみに興山(こうざん)は、弘道館に飾ってある慶喜の達筆の書「雲高気静」に入っているのも目撃しました。
「経綸堂(けいりんどう)」という号も使ったそうです。明治維新で出された五箇条の御誓文に「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」とあるのですが、経綸は国家の秩序を整えて治めることです。斉昭パパから「将来、将軍になってね」という願いでしょうか。これは画数も多いので、使いにくかったんじゃないでしょうか。
静岡に隠居後は、勝海舟から「一堂(いちどう)」という号をもらいますが、書きにくいので使わなかったとのこと。そんなに書きにくそうに見えませんが、実は表向きの理由で、勝海舟がえらそうに押しつけるのを嫌ったんじゃないでしょうか。
やっとよく知っている名前に落ち着きました。ほっとしますね。
弘化四年(1847年)11歳で一橋家を継ぐことが決まったので、この頃からもう徳川の「苗字」を名乗りました。徳川慶喜になっています。
元服の時に12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)から慶の字をもらって徳川慶喜となりました。いきなり日本の頂点から、ポンと名前をもらっちゃいます。まあ家慶は気前よく24人ぐらいに自分の名前を上げてるみたい(福井藩の松平慶永など)ですが、慶喜の場合はお世継ぎを匂わせてる感じなので特別です。
将軍家慶は慶喜をすっかり気に入ってしまい、同じ江戸城内の一橋邸宅によく足を運びました。
慶喜を自分の次の将軍にしたい、とワガママを言い出します。老中の阿部正弘に「いや、正式な子供いるんだから」と諭されて断念しています。
一応こっから死ぬまでこの名前です。
ところで、Wikipediaには、アルファベットで「Yoshihisa」と書いたと記載があり、「よしひさ」と称していた説があるようです。ただ、これはお孫さんなど親族や近い人の証言がないので、さすがに「ヨシノブじゃなくてヨシヒサがホント」はないんじゃないですかね?
『ヤングジャパン』という幕末の外国人の書物に記載があるとのことですが、私の手元の本では見つけられず…..。ただ『ヤングジャパン』は面白い書籍です。
[追記] この説「徳川慶喜の読みはヨシヒサ」は本当でした。維新史料綱要 慶応三年二月二十一日のところに「幕府、征夷大将軍徳川慶喜の音称ヨシヒサを布告す」とあります。
水戸藩が七郎麿を慶喜に改名した当時の書状には、「喜」に「ノブ」のカナが当てられていますので、慶喜改名当時はヨシノブだったことも確かです。
足利六代将軍の義教が、義宣(世を忍ぶ)の語感を嫌って改名したことから、「よしのぶ」の読みはあまり好まれなかったという説が出ています。私もこの改名が事実だとわかって真っ先に思い描いたのは「くじ引き将軍」義教でした。納得がいく説です。
この改名事件は別途調べたいと思います。
朝廷や外交など正式な書面には「源」または「源朝臣」で署名をしています。慶應三年(1867年)に慶喜は将軍として、デンマークと修好通商航海条約を締結し、その条約は「源慶喜」の署名です。
この時代の人は「苗字」とは別に「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を持っている場合があり、正式には「源朝臣徳川内大臣慶喜」となるそうですが、もうわけがわかりませんね。
朝臣って「あさしん」って読むの、これ何?
「源(みなもと)」は氏(うじ)
「朝臣(あそん)」が朝廷から与えられた姓(かばね)
「徳川」は地域に由来した家の名前で苗字
となる分類です。内大臣は朝廷での位ですね。氏には「の」をつけます。
「みなもとのあそんないだいじんよしのぶ」、ああややこしい。
「源」ですが、徳川家康がそもそも源氏を名乗っていました。武家政治、幕府、征夷大将軍の起源である清和源氏の末裔だぞ、と言いたいのでしょう。天皇がいっぱい子供を産んだ時代に、財政が大変なのもあって皇室を整理し「源」を与えました。臣籍降下(しんせきこうか)、今で言う皇室離脱でしょうか。その時与えられた姓が「源」で、天皇家が源流だということを示しています。
でも徳川家の源氏は嘘っこです。家康は家系図を買い取って自分の家系図にしたと言われています。え?詐欺じゃんと脊髄反射しましたが、この時代はそこまで悪い事じゃなかったのかもしれません。
「朝臣(あそん)」は朝廷用の名前で、朝廷の仲間に入れてやるから朝臣て名乗ってOKということなんでしょう。日本四姓というのがあって、平朝臣、源朝臣、藤原朝臣、橘朝臣で、これで9割方の偉い人がカバーできたようです。
ちなみに「姓(かばね)」にはランクがあって「朝臣」は当時一番ランクが上だったようです。
もう松平と源氏の謎でお腹いっぱいです。
これが私の最大の関心ごとです。歴史小説を書くと、この人は慶喜をなんて呼んでたんだ? と気になって書けなくなってしまいます。
当然当時の音声なんか残ってませんし、歴史文書は文語体なので、口語体、しゃべっている会話文の記録が、ほとんどありません。
口頭の場合は「私」でいきます。これは『慶喜公行状私記』という側近バディの平岡円四郎が書いたプロモーション文書にありました。現代人もわかる言い方で、よかったです。
文書の場合は「臣」「臣慶喜」と自分から言っているのが確認できました。朝廷に対する場合かもしれません。
平岡円四郎とか渋沢栄一など側近は慶喜を何と呼んでいたか?
「殿」または「公」というのが多いです。「一橋様」もあると思われます。『慶喜公伝』などでも幕末期にこう呼んでいました。ここで「慶喜様」とは呼ばなかったと思います。
側近同士や他人と慶喜を話題にするときは「公」「一橋公」「一橋様」があり、将軍になってからは「公方様(くぼう)」「上様」などを見つけました。
征夷大将軍は「大樹」「大樹公」という呼び方もあったようです。大久保や西郷など薩摩藩の人たちの手紙には「大樹公」と記載されています。
「一橋中納言」とか「一橋公」「一橋様」などで、将軍になってからは「公方様」「上様」や「大樹公」を見かけます。
一方、「あいつが」みたいに少し悪くいう場合は「橋公」「一橋」とか、さらにひどいと「豚一」などのあだ名で呼んでいるのを見かけます。将軍になったのに「一橋」で呼ぶのは、揶揄したニュアンスを含む場合があったようです。
親しくて、かつ慶喜より上の人は限られています。これは記録がないと思いますがお母さんの吉子さんも含めて「慶喜よしのぶ」と呼んでいたと思います。
こちらは「昔夢会日記」に「烈公は公をなんと呼んでましたか?」と聞かれています。これは見逃していましい。
「水戸におりし時は七郎、一橋に入りて後は「刑部(ぎょうぶ)」
一橋家に養子に入り元服も済ませたあとは、ちゃんと敬意を表して肩書きで呼んだということでしょう。「刑部、久しぶりだな」とかですね。お母様の吉子さんも同じ呼び方でしょう。
ただ、「刑部」だと、小説やドラマで使いにくいですね。「慶喜」とするのが都合がよさそうです。
奥様の美賀子様はさらに記録が見つかりませんが、夫婦間は上下関係がありそうなので「殿」と呼んでいたと考えています。
慶喜は江戸の町の火消しの親分の新門辰五郎と、想像を超えた親しい関係にありました。辰五郎の娘のお芳は、慶喜の妾になっています(ただし、伝聞以外の正式な記録でお芳の存在は確認されていません)。
辰五郎やお芳との会話なんて、まったく記録がないです。なのでここは小説書く人の想像力でオッケーですね。
私は「一橋殿」と辰五郎が町中で呼んだら、「いいから、ケイキと呼んでくれ」という会話を想像してうれしくなります。辰五郎はちょっと困りつつ「じゃあ、ケイキさんで」なんてね。
お芳は「あたいはケイキ様だけどケイキって呼ぶこともあるよ」って言わせたいです。
豚肉は当時まだ珍しい食べ物だったかもしれませんが、慶喜は豚肉が大好物でした。「将軍の癖に、そんなチャラいもん食いやがって」という感じでしょうか?
主に豚肉は薩摩藩から調達したようです。
薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)に、何度も「豚肉送ってくれ」と手紙で依頼しています。小松帯刀(こまつたてわき)が「もう手持ちの豚肉がなくなっちゃったよ」と頭を抱えている手紙が残っています。この辺はまた後ほど。
福井藩の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が言ってました。春嶽に限らずでしょうが、みんなあだ名をつけるのが好きですね。
慶喜が「ころころ主張を変える」ので「慶喜は二人いるのか? 」と、まったく困った人だ、という思いでしょう。たとえば文久三年末から四年にかけてギネス並みに短い朝廷参与会議で、開国派のはずの慶喜が突如「横浜鎖港」を主張して、参与会議をつぶしてしまいます。
春嶽からみれば「そりゃ無いでしょ?」と言いたくなりますが、「臨機応変に考える」現代的な人にも見えます。アジャイルなプロジェクトでも対応できそうです(テキトーに言ってます)。
これも福井藩の松平春嶽が言っていた皮肉です。松平春嶽は慶喜の近くにいましたが、慶喜には繰り返しびっくりして、正直あきれていたんでしょう。
「飲め」「いやだ」「飲んでくださいよ」「やだね」「じゃあ、いいですよ」「おい、なんでもっとススメないんだ?」「え?飲みたかったんですか? じゃあ飲んでください」「じゃあ、しょうがないな」というやつですね。面倒臭い人です。
松平春嶽は、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)のあと、慶喜に将軍になるようにすすめますが、慶喜はこれを拒否します。なかなかウンと言わないけど、そのうち将軍になる面倒な人ということで「ねじあげの酒飲み」とあだ名を付けました。
春嶽の予想通りで、実際に4か月ごねた後で将軍になりました。ただ慶喜が将軍という酒を飲みたがっていたのか、その本心はどうなのか? ここも面白いのでまた後ほど別の投稿で。
一度「これ」といったら考えを変えない。「二心殿」や「ねじあげの酒飲み」とは明らかに矛盾しますが、どれも慶喜が周囲の期待とは違う決断をするので、ついたあだ名だと言えます。期待と違うので周囲は慌てて説得しますが、慶喜は応じません。また剛情公がはじまったよ、という感じでしょう。
たとえば慶喜が13代の家定や14代の家茂と将軍後継争いをしたころ「将軍になりたくない」と言っていましたが、円四郎あたりは剛情と思ったのではないでしょうか? 将軍になりたくない、とかありえないのに、まだ言っているよと。
これも私は「何事も自分で根本から考えて判断する」人と、プラスに受け取っています。
これは尊敬する家近良樹さんのこちらの記事からの引用です。陰で慶喜を呼ぶ際に使われていたあだ名として、「独公」「独橋」「独木公」があったそうです。
これは慶喜が、家臣や周囲の人たちに相談なく重要な決断をしていくので、それを揶揄する言い方だったようです。「あの人は勝手に決めるし」というわけです。そうでなければ「大政奉還」や「大阪城から敵前逃亡」なんて、決断できないですね。将軍期以降の隠語のような気がします。
慶喜がもっとも気に入っていたあだ名というか、呼び方ですね。
多分「公」とか「上様」と言われるのが堅苦しくて嫌だったんだと思います。上下関係なんて意識しなくていいぞ、という感じでしょう。えらい人だから言えるんですけどね。当時の「本名呼ばない文化(諱いみな)」から「よしのぶ」って呼んでとは言えないので、その結果「ケイキ」となった。
将軍を引退してからも、手紙で「ケイキ」と名乗ったり、周囲の町民なんかが親しみをこめて「ケイキ様」と読んでいました。
海外のサイトでは、Keiki Tokugawa と表記されているサイトが意外に多いです。
きっとこの軽い響きを愛していたんだと思います。私はこの親しみを込めた呼び方が大好きで、小説の題名にしています。
このあたりは不得意なので、間違っているかもしれません。
一橋家、田安家、清水家を御三卿といいますが、これはこの三家が刑部卿、民部卿、兵部卿を名乗ることができたので御三卿というわけだそうです。
慶喜は一橋を継いだ時に、刑部卿になりました。「卿」は大臣に近い意味だと思いますが、刑部卿としての仕事はあったんですかね?
事典風に書くと「弘化四年、一橋家を相続し元服、従三位左近衛中将に任じ、刑部卿と称し、名を慶喜と改めた」となります。
これも事典的な書き方をすると、「慶喜は慶應二年八月に徳川宗家を相続、ついで十二月権大納言・正二位・征夷大将軍、その後内大臣に任叙された」となります。権大納言も内大臣も朝廷の官位です。正二位はランクです。権大納言も内大臣も期間は短いです。
正二位はかなりえらく聞こえますが、えらいです。
慶喜の位の変遷は以下だと思われます。
慶喜は外国の人と会うのが好きでした。外交の場では、相手をなんと呼ぶかが重要だったりします。
慶喜が将軍として各国代表と会った時、フランスは「マジェスティ」と呼んだのに、英国のハリー・パークスだけが「ハイネス」と呼んでちょっと問題になります。
慶喜が問題にしたというより、フランス公使のロッシュが、「パークスは嫌なやつだから気をつけろ」と問題にしたわけです。フランスと英国は仲が悪そうです。
一方、英国のパークスからすれば、マジェスティ=陛下は英国の女王陛下ですから、そのまま天皇の呼び方になります。そうすると将軍はマジェスティとは呼べない、ということで、英国人なりの理屈はあるわけです。パークスに悪気があったのかどうかは何とも言えません。
ただ、呼び方の混乱にとどまらず、天皇と将軍の二重権力構造は幕末外交上、混乱の元でした。
タイクンは日本語の「大君」からきています。
Google翻訳が「将軍」を英訳すると「Shogun」と翻訳するので、その感覚に近いと思います。
大君は呼び名というよりは、手紙などで慶喜を呼ぶときに使われました。英国公使ハリー・パークスの本国への手紙にも書かれています。
大正二年(1913年)の11月22日に慶喜は77歳で亡くなりますが、戒名はなかったようです。
「葬式は仏式ではなく神道でお願い」と遺言したので、戒名なしです。
慶喜が神道を選んだのは、ミカドを思う気持ちが強かったからだろうと想像します。
この時代は名前は変わる、変える感覚なのと、色々な階層に応じたルールで名前がいくつもあります。私たちとはまったく違う感覚ですね。
自分のキャリアのステージが変わると、名前や呼び方も変わっていきます。出世や転職のたびに名前変えるのはやってみたい気もしますが、大混乱ですけどね。
慶喜の場合は特別で、十代の入口で日本トップクラスの高級ブランド「徳川」「慶」の名前が与えられるわけなので、いったん日本の頂点にニアミスしてしまいます。
頭のいい人ですから、ここで「幕府(公儀)」を高いところから見てしまうわけです。幕末の志士たちは、下から上を見てるので、当然周囲の人々とは全然違う感覚で行動したでしょう。「二心殿」や「剛情公」など慶喜のあだ名は、「思ったのと違う、理解不能な人」という驚きが滲みでています。
かた苦しい名前は肩が凝るから、ケイキって呼んでもらった方がいいね
Googleとか外資系企業は日本でもファーストネームで呼び合うので、現代にきたらGoogleに入るとなじむかもしれませんね。
慶喜は「ケイキ」という名前を好んで使ったようです。その響きの無所属なところ、「軽さ」を愛したからだろうと想像します。
軽さを愛し、理解不能なところが、まさに慶喜の魅力です。私の小説では「ケイキ君」とタメ口で呼ばせてもらってます。
多くの慶喜本を読むと、慶喜が将軍になりたがっていた、権力欲があった、けれども負けて逃亡したという前提で書かれています。私はそれを疑っています。
それは普通の人の視線で、キャリアの階段を上がるのがえらい、という常識で慶喜を見てしまっているのではないかと思います。慶喜の目の高さは違うところにあるので、「ケイキ」という軽さには近づけていないと思えるのです。
自分でも混乱してきたので、最後に表を作ってみました。正直、あだ名のところで、どの時代に呼ばれていたかは、自信ないです。追加や訂正があれば、ぜひお知らせください。
水戸時代 | 一橋時代 | 将軍時代 | 隠居時代 | |
---|---|---|---|---|
正式名 | 松平七郎麿 → 松平昭致 | 徳川慶喜(ヨシノブ) 一橋慶喜(通称) | 徳川慶喜(ヨシヒサに改名) 源朝臣慶喜 | 徳川慶喜 |
肩書き | 刑部卿 → 将軍後見職 → 禁裏御守衛総督 摂海防禦指揮 | 征夷大将軍 (第十五代) | ||
官位 | 従三位・左近衛権中将 → 権中納言 | 正二位・権大納言 兼右近衛大将 → 内大臣兼右近衛大将 | 従四位 → 正二位 → 従一位 | |
あだ名 | 豚一、剛情公、 独公、独木公、独橋 | 二心殿、 ねじあげの酒飲み | ケイキ様 | |
字と号 | 字 子邦 号 興山 | 号 経綸堂 | 号 一堂 | |
呼び方 | 七郎 | 刑部、刑部卿、 一橋殿、殿、公、 橋公、一橋 | 大樹公、内府公、 上様、公方様 | 先様、御前、 ケイキ殿 |
外国から | タイクーン、 マジェスティ、 ハイネス(英のみ) |
「前半、攻めながらも、(ボールを)取られたときのリスクマネジメントというか、バランスが悪いなと感じていて、サイドバックのポジションもちょっとあいまいだった」
アジアカップ カタール戦後の今野のコメント 2011年1月22日
最初のきっかけは、埼玉スタジアムで見たアルゼンチン戦での栗原のプレイだった。
あれ?と思ったのだ。
正直、それまでの代表での栗原のプレイは、集中を切らす場面が散見された。
W杯直前の岡田監督が、栗原をテストし、不合格となったが、その時の栗原のパフォーマンスでは、岡田監督の判断も仕方のないものに見えた。
ポテンシャルは一級品だが、代表でその力をうまく活かすことができなかった。
ザッケローニ監督が就任して、最初のアルゼンチン戦、日本のセンターバックは、その栗原と、背の高くない今野(公式178㎝)の布陣だった。中澤と闘莉王が出場できない状況で、苦肉の選択に見えた。
しかし、栗原のパフォーマンスは、まったく集中力を切らさずに、アルゼンチンを零点に抑え込む見事なものだった。
アルゼンチンに勝利した歓喜に酔いながら、頭の片隅で「なんで栗原があんなによかったんだ?」と僕は疑問に思っていた。続く韓国戦でも、栗原は隙のないプレイぶりを見せ、さらに僕の疑問は深くなった。岡田監督の栗原と、ザッケローニ監督の栗原は、別人のように違って見えたのだ。いったい何が違うんだ?
一つ目の理由は、精神的なものと考えた。
岡田監督に呼ばれたタイミングは、チーム状態も最悪な上に、南アフリカ召集の最後のチャンスというプレッシャー、一方で、呼ばれてもバックアップ確定というなんとも複雑なものだった。
そんな状況で、突然呼ばれても、本来のパフォーマンスが出来るかよ、ということだろう。
二つ目の理由は、ザッケローニ采配だろう、と考えた。
ザッケローニ監督の栗原への指示は、「(他のことは気にせず)自分の前の相手を抑えることに集中しろ」というものだったという。
もともと、栗原はストッパーとして、対人に絶対的な強みを持つディフェンダーだ。それに比べて、ライン取りやカバーリング、サイドとのバランス取りなどは、やや不得手だ。
僕らの普段の仕事だって、「やらなくてよいこと」が決まらないうちは、あらゆることが気になって集中力は落ちる。まして、不得意な荷物を下ろし、得意なタスクに集中しなさい、と指揮官に言われれば、ポテンシャルが輝きを放つ。
その二つの理由で、なんとなく納得していたのだが、アジアカップの日本代表を見ていて、三つ目の理由に気がついた。
アジアカップ、センターバックでプレイする吉田を見ていて、吉田っていいディフェンダーじゃん、と思ったのだ。そう言えば栗原を見たときと、似た印象だなー、と考えていて、「ああ、組んだ相手が今野だったからだ」と気がついたのだ。
コンディションもいいのだろう。特にアジアカップでの今野は、切れ切れだ。
ファウルを冒さずに相手をつぶすパフォーマンスは、相変わらず一級品だ。さらに、敵のパスコースやシュートコースを消して、危険なスペースを埋める、事前に危険の芽を摘むプレイが、かなり効いている。そして、いざという時の今野の高いカバーリング能力は、栗原にしろ、吉田にしろ、彼らの負担をかなり軽くしているはずだ。
「困ったときは今ちゃん」というわけで、岡田監督の元で今野が呼ばれる理由は「便利だから」という感じに見えた。常に代表に呼ばれているのに、ピッチに立つのは時々。
ザッケローニ監督のもとでも、同じ感覚で見ていた。今野がセンターバックについた第一の理由は、中澤も闘莉王も不在だからだろうと、僕は漠然と思いこんでいた。
しかし、どうも違うのではないか?
ザッケローニの掲げる日本代表のキーワードは「勇気とバランス」だ。カタール戦後のコメントが特に印象的だった。
「わたしは日本代表監督になった時から、このチームには勇気とバランスをもって戦ってくれと(選手に)伝えてきたし、そのコンセプトをもってやっている。今後も相手がどこであれ、相手の力に左右されることなく、勇気をもって日本のサッカーをやっていくのが、このチームの目標である。」
南アフリカで不動のセンターバックだった、中澤と闘莉王は、果たしてザッケローニの目にかなうほど、バランスを保つことに長けているだろうか? 正直、ちょっと疑問だ。じゃあ、伊野波は? 槙野は? 吉田は? 岩政は?
おそらく日本代表クラスのディフェンダーで、もっとも「バランス」に気を配るのは、今野だろう。センターバック同志のバランスはもちろん、サイドとの連携、中盤と敵を挟み込む時の出足の早さ、そしていざとなれば敵をつぶしに行くタイミングと体の入れ方。守備の国から来たザッケローニの掲げる「勇気とバランス」にとって、実は今野こそが不可欠の存在なのではないだろうか?
「前半、攻めながらも、(ボールを)取られたときのリスクマネジメントというか、バランスが悪いなと感じていて、サイドバックのポジションもちょっとあいまいだった」
カタール戦後の小さなコメントだが、今野自身が最終ラインから、常にチームバランスを、気にしていたことを伺わせる。
今野をこよなく愛する僕としては、今野がセンターバックに立つと、得点に絡むシーンが減るので、ちょっとさみしい。
それでも、今野は憲剛並みの、長く速いグラウンダーのパスを何度も通している。ビルドアップの点でも、日本のスピードアップに密かに貢献している。
中澤と闘莉王が戻ってきても、ザッケローニ監督にとって、今野は最初の選択肢になるのではないか? 今野と闘莉王、あるいは今野と吉田という組み合わせを選ぶのではないだろうか?
スペインのプジョル、イタリアのカンナバーロ、サッカー大国にも背の高くない不動のディフェンダーはいる。今野は、プジョルやカンナバーロとは違うタイプだが、サイドバックとボランチの感覚も持つ、別の意味で希有なセンターバックだ。
アジアカップの今野泰幸のパフォーマンスを見ていると、日本代表の不動のセンターバック、いや、アジア屈指のセンターバックになっていても、ちっとも不思議ではない、と今は思える。
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はっきり言いますと、片や(=Jユースは)プロ養成所ですよね。私どもは教育の一環で、別にそれで逃げるわけではありません。いずれはそういうスタイルになるだろうと思いますが、その途中の段階だと思います。じゃあ、日本の育成がどうなるかというと先はちょっと見えませんけれども、高校には高校の良いスタイル、良い状況があります
流通経済大学付属柏高校 本田 裕一郎監督 記者会見の言葉(2011年1月8日)
サッカージャーナリスト 小澤一郎氏のブログより引用させていただきました。
高校サッカーの今年は89回目だ。2011年から89を引くと1922だが、戦争の中断もあり、第1回は1918年(大正8年!)までさかのぼるそうだ。
歴史上の分岐点は日本テレビが中継を開始した1971年だ。日本テレビが引き受けた経緯は、そろそろサッカーもプロ化を目指す方向の中で、プロへの選手供給源を、「プロ野球に対する高校野球」の位置づけで、高校サッカーに求めた、という経緯があったようだ。もちろん、まだJリーグは存在していなかった。
時代が変わり、高校選手権は、プロへ通じる高校年代の最高のサッカー大会ではもはやなくなった。ずっと議論されてきたことだが、そろそろ大きく変わる時が近づいているように思う。
個人的には、高校とクラブを縦に割るのではなく、両社をまぜて、上下に2部か3部ぐらいの中心となるリーグを開催するのがよいように思う。
(クラブユースや高校だけの戦いを無くすべきとは思っていない)。
今後、プリンスリーグと高円宮杯が整備されれば、そちらが高校年代最高の戦いになる流れだと思う。
ただ、現状の高円宮杯は、大会の構造や参加方式も、増築を重ねた状態で、高校側にもクラブ側にも、第1優先順位の大会にはなっていないように見える。メディアの露出も低く、本格的な大会として認知されるには、もう数年の時間が必要な気がする。
明らかに高校サッカーが過渡期に入っていると思うのだが、じゃあ目の前の戦いが面白くないか、というとそんなことはない。その辺が、高校サッカーを見ていて、なんとも不思議な気分になるところだ。特に監督たちの仕事は、かえって味わい深い。
とりわけ、今年準決勝に並んだ4チームの戦いは、どれも個性的で、これほどバリエーションのあるチームが並ぶことは、クラブユースではちょっと味わえない。
滝川第二は、守備でしっかりハードワークをした後、2トップにできるだけ速くボールを配給する。準決勝こそ、ふわっとしたボールが多かったが、それも、自分たちの強みを追求して、かつ負けないことを優先した戦い方なのだろう。「結果が出ないと選手たちが報われない」という監督の発言もあったが、あえて結果にこだわる采配を取ったように見える。決勝戦では、フィールドを広く使った見事な戦い方だった。
滝二に対する立正大淞南は、「運動量=勝利」の法則を信じて選手がよく動く。滝二はこれを避けて途中を省略したのだろう、とにかく徹底的に選手がよく走る。敵がボールを持てば、次々に選手を捕まえにいくし、自分がボールを持てばドリブルの間に、周りが追い越すように走っていく。スタンドで見ていると監督はしょっちゅう、選手たちに攻めろ、と鼓舞しているように見えた。ことごとく決定機をはずし勝利を逃したが、チームの個性は十分に発揮された。
久御山は、野洲高校とスタイルが似ていた。すべての選手が、必ず足元でいったん敵を交わして、キープしてボールを運んでいく。
いや、そこはダイレクトでつないだ方がいいんじゃないか、と思う場面でも、そうはしないのだ。実直につないでつないで、明らかに地力が上の流通経済大柏をPK戦とはいえ破ってしまった。選手権の間にチームが大きく成長したと監督が語っていたが、サッカーのスタイル以上に、チーム全体が慌てず落ち着いてプレイしていたのが印象的だった。
一方の流通経済大柏は、フィジカルの上に、選手同士の連携も高いレベルで融合するチームになっている。準決勝では、主力を欠いたため前半だけは、ちぐはぐな戦いぶりだったが、吉田投入後、後半は完全に力を見せつける場面が続いた。特に二点目は素晴らしく、守備に仕事をさせない連携にプラスして、個の判断力も、抜き出ていた。もし、延長戦が導入されていれば、と思わせる試合だった。
多くの優秀な選手が、Jのクラブユースに流れる中、監督たちは足りない現状からチーム作りをスタートしなければならない。問題を抱えつつも、その状況の中で、考え抜き、かえって素晴らしい仕事を見せるというのは、日本人の得意とするところかもしれない。
振り返れば旧来の強豪校に選手が集まらなくなり、そこに野洲高校が旋風を巻き起こしたのを合図に、風景が変わった。矛盾した言い方だが、サッカーの質が低下するのに反比例して、チーム作りの創造性は深まっているような印象だ。
一方のクラブユースの監督の多くが一部の例外をのぞいて、技術はあっても、子どもと向き合った経験に乏しい現状と比べると、余計に監督とチーム作りの個性が際立って見える。
Jクラブの門戸はせまく、ユース年代でチャレンジしようと思う多くの子供たちが目の前で門を閉じられてしまう。選手と親たちにとってみれば、クラブ以外の選択肢が華やかなのは救いだ。
うまい選手の中だとかえって伸びない選手もいるし、高校の途中から化ける選手も少なくない。大学サッカーも含めて、選択肢の多さとチームの個性の豊かさは、日本の育成のすそ野を確実に広く豊かにしている。
冒頭に引用した流通経済大柏の本田監督の言葉は、準決勝直後の会見で、「今後高校サッカーが果たす役割をどう考えるか」という記者の質問に答えたものだ。乱暴な解釈だが、「先がどうなるかなんて、俺にもわからねえが、仕事はこちとらの方が上だぜ」と言っているように思えた。
はっきり言いますと、片や(=Jユースは)プロ養成所ですよね。私どもは教育の一環で、別にそれで逃げるわけではありません。いずれはそういうスタイルになるだろうと思いますが、その途中の段階だと思います。じゃあ、日本の育成がどうなるかというと先はちょっと見えませんけれども、高校には高校の良いスタイル、良い状況があります(中略)。
少し(Jユースの育成の)進化が遅れているんじゃないかと感じていました。じゃあどうなるんだと言われると、高校には高校のあれがあるし、両者共存でいこうというのが指導者の暗黙の了解ですが、さあどうなるんでしょうかというのは私にもちょっと見えません。
決勝は滝川第二の初優勝で幕を閉じた。最後の最後まで、両チームの個性がぶつかりあった見事な戦いだった。
決してこの年代の最高の素材が集合しているわけではない。高校サッカーは明らかに過渡期だろうが、だからこそ、監督や選手たちは希有な時を過ごしているように思う。
あらためて高校サッカーの監督たちの仕事に敬意を表したい。
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