沈みゆく船
この音楽を聞いていると、いつもタイタニック号のイメージが浮かび上がってきます。
華やかな舞踏会が繰り広げられる豪華な客船、しかし、その船はまさに沈みゆこうとしています。
それでも、人々は、そんなことを夢にも思わずに踊り続けている。
パッと聞くだけなら、この上もなく華やかで明るいだけの音楽に聞こえます。でも、その音楽を聞いていると、その底に何とも言えない苛立ちのような不安感が流れています。それは、おそらくは上辺の華やかさと底辺の不気味さが妙に同居していて、その不気味さが華やかな音楽の合間に時々ぬっと顔を出すからでしょう。
こういう不気味さは結構コワイ。
そして音楽はラストに向けてやけくそのようにテンポを速めながら、最後は砕け散るように幕を閉じます。
よく言われるように、この作品にはラヴェル自身の第一次世界大戦への従軍とその後の心的外傷後ストレス障害(PTSD)が間違いなく反映しています。
ラヴェルはこの作品に対して次のような標題を掲げています。
渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。
おそらく、氷河に衝突したのがフランツ・ヨーゼフ1世治下の1850年代であり、その結果としての沈没が第一次世界大戦であったという思いがあったのでしょうか。
でも、これが他人事とは思えない現状も怖いなぁ。
とんでもない「へそ曲がり」の作品
ブラームスはあらゆる分野において保守的な人でした。そのためか、晩年には尊敬を受けながらも「もう時代遅れの人」という評価が一般的だったそうです。
この第4番の交響曲はそういう世評にたいするブラームスの一つの解答だったといえます。
形式的には「時代遅れ」どころか「時代錯誤」ともいうべき古い衣装をまとっています。とりわけ最終楽章に用いられた「パッサカリア」という形式はバッハのころでさえ「時代遅れ」であった形式です。
それは、反論と言うよりは、もう「開き直り」と言うべきものでした。
しかし、それは同時に、ファッションのように形式だけは新しいものを追い求めながら、肝腎の中身は全く空疎な作品ばかりが生み出され、もてはやされることへの痛烈な皮肉でもあったはずです。
この第4番の交響曲は、どの部分を取り上げても見事なまでにロマン派的なシンフォニーとして完成しています。
冒頭の数小節を聞くだけで老境をむかえたブラームスの深いため息が伝わってきます。第2楽章の中間部で突然に光が射し込んでくるような長調への転調は何度聞いても感動的です。そして最終楽章にとりわけ深くにじみ出す諦念の苦さ!!
それでいながら身にまとった衣装(形式)はとことん古めかしいのです。
新しい形式ばかりを追い求めていた当時の音楽家たちはどのような思いでこの作品を聞いたでしょうか?
控えめではあっても納得できない自分への批判に対する、これほどまでに鮮やかな反論はそうあるものではありません。
- 第1楽章 Allegro non troppo ソナタ形式。
冒頭の秋の枯れ葉が舞い落ちるような第1主題は一度聞くと絶対に忘れることのない素晴らしい旋律です。
- 第2楽章 Andante moderato 展開部を欠いたソナタ形式
- 第3楽章 Allegro giocoso ソナタ形式
ライアングルやティンパニも活躍するスケルツォ楽章壮大に盛り上がる音楽は初演時にはアンコールが要求されてすぐにもう一度演奏されたというエピソードものっています。
- 第4楽章 Allegro energico e passionato パッサカリア
管楽器で提示される8小節の主題をもとに30の変奏とコーダで組み立てられています。
劇的息吹と情熱と、そして壮大さ
ノクターンはロマン派の時代に盛んに作られたピアノ小品の一ジャンルです。
ロマン派の時代になると、厳格な規則に縛られるのではなく、人間の感情を自由に表現するような小品がたくさん作られ、当初はバガテルとか即興曲などと呼ばれていました。
その様ないわゆる「性格的小品」の中から「ノクターン」と称して独自の性格を持った作品を生みだしたのがイギリスのジョン・フィールドです。
フィールドはピアニストであり作曲家でもあった人物ですが、低声部の伴奏にのって高音部が夜の静寂を思わせるような優雅なメロディを歌う作品を20曲前後作り出しました。そして、このフィールドが作り出した音楽形式はショパンに強い影響を与え、彼もまた「ノクターン」と称する作品をその生涯に21曲も作り出しました。
初期の作品は「ショパンはフィールドから直接は借用はしていないが、その旋律や伴奏法をまねている」と批評されたりしていますが、時代を追うにつれて、フィールドの作品にはない劇的な性格や情熱が付け加えられて、より多様な性格を持った作品群に変貌していきます。
そして、、今日では創始者のフィールドの作品はほとんど忘れ去られ、ノクターンと言えばショパンの専売特許のようになっています。
後年、ショパン研究家として著名なハネカーは次のように述べています。
「ショパンはフィールドの創案になる形式をいっそう高め、それに劇的息吹と情熱と、そして壮大さを加えた。」
まさにその通りです。
ショパン:ノクターン Op.55
ショパンのノクターンの中ではあまり重視されない作品です。しかし、第1番は相対的に演奏が容易なのでピアノを弾く人には好まれて演奏されることが多いようです。1曲でもショパンが弾ければ嬉しいですからね。
- 第1番は極めて陰鬱な雰囲気に包まれた作品で、「悲しみが次第に失望の叫びにまで高められる」と評した人がいました。
しかし、最後の最後に転調を繰り返してかすかな希望を感じさせて曲は閉じられます。
- 第2番もまた少し変わった雰囲気で、ノクターンと言うよりは即興曲のような音楽になっています。
そのために、形式的には極めて自由で、その時々の感情に添った即興的な演奏が繰り広げられるという作品です。
ショパン:ノクターン Op.62
ショパンにとっては存命中に出版された最後のノクターンです。健康のさらなる悪化に加えて、サンドとの不仲も決定的なものになっていく中で作曲されたもので、さすがに幾ばくかの衰えは各誌得ない作品と言えそうです。
とはいえ、表情豊かな和声とポリフォニックな響きが巧みに結びつけられていて、晩年のショパンらしい円熟味を感じさせます。
- 第1番は自由な即興的な流れの中で上で述べたような特徴をはっきりと見て取ることが出来ます。美しいコーダも印象的です。
- 第2番は一般的にはあまり評価されることの少ない作品ですが、洗練された和声と甘美な旋律を評価する人もいます。この作品もまた和声とポリフォニックな響きの結びつきに大きな特徴を持っています。
ショパン:ノクターン Op.72
シィパンが17歳の時に作曲された作品で、ショパンの死後に幾つかの作品をまとめて「作品72」として出版されたものです。
ここにはすでにショパンらしい叙情的な旋律と、それを変奏していく技法や微妙な転調による感情のうつろいなどがすでにはっきりと聞き取ることがでいます。その意味では、若書きの作品でありながら、それ以後のノクターンのスタイルをはっきりと先取りした作品だと言えます。
ショパン:ノクターン Opposth
- ハ短調の作品については作曲年代が全く確定せず、初期の作品という人もいれば最晩年の作品という人もいます。
作品は二つの部分から出来たシンプルなもので、その二つが自由にやり取りをするように進行していきます。
- 嬰ハ短調の作品は「遺作」と言われることも多く、またヴァイオリンやチェロなどにも編曲されて非常に有名な作品です。
一般的に「遺作」と言えばなくなる前の最後の作品というイメージを抱くのですが、クラシック音楽の世界で生前に出版されず、死後に遺稿の中から発見された作品に対して「遺作」という事が多いようです。
この嬰ハ短調の作品もおそらくは1930年頃に作曲されたもので、何種類かの異稿が存在するようです。1875年に出版されたときにはショパンが姉に送った楽譜をもとにしたようです。
秋のシンフォニー
私は長らくブラームスの音楽が苦手だったのですが、その中でもこの第3番のシンフォニーはとりわけ苦手でした。
理由は簡単で、最終楽章になると眠ってしまうのです(^^;
今でこそ曲の最後がピアニシモで消えるように終わるというのは珍しくはないですが、ブラームスの時代にあってはかなり勇気のいることだったのではないでしょうか。某有名指揮者が日本の聴衆のことを「最初と最後だけドカーンとぶちかませばブラボーがとんでくる」と言い放っていましたが、確かに最後で華々しく盛り上がると聞き手にとってはそれなりの満足感が得られることは事実です。
そういうあざとい演奏効果をねらうことが不可能なだけに、演奏する側にとっても難しい作品だといえます。
第1楽章の勇壮な音楽ゆえにか、「ブラームスの英雄交響曲」と言われたりもするのに、また、第3楽章の「男の哀愁」が滲み出すような音楽も素敵なのに、「どうして最終楽章がこうなのよ?」と、いつも疑問に思っていました。
そんな私がふと気がついたのが、これは「秋のシンフォニー」だという思いです。(あー、また私の文学的解釈が始まったとあきれている人もいるでしょうが、まあおつきあいください)
この作品、実に明るく、そして華々しく開始されます。しかし、その明るさや華々しさが音楽が進むにつれてどんどん暗くなっていきます。明から暗へ、そして内へ内へと音楽は沈潜していきます。
そういう意味で、これは春でもなく夏でもなく、また枯れ果てた冬でもなく、盛りを過ぎて滅びへと向かっていく秋の音楽だと気づかされます。
そして、最終楽章で消えゆくように奏されるのは第一楽章の第1主題です。もちろん夏の盛りの華やかさではなく、静かに回想するように全曲を締めくくります。
そう思うと、最後が華々しいフィナーレで終わったんではすべてがぶち壊しになることは容易に納得ができます。人生の苦さをいっぱいに詰め込んだシンフォニーです。
劇的息吹と情熱と、そして壮大さ
ノクターンはロマン派の時代に盛んに作られたピアノ小品の一ジャンルです。
ロマン派の時代になると、厳格な規則に縛られるのではなく、人間の感情を自由に表現するような小品がたくさん作られ、当初はバガテルとか即興曲などと呼ばれていました。
その様ないわゆる「性格的小品」の中から「ノクターン」と称して独自の性格を持った作品を生みだしたのがイギリスのジョン・フィールドです。
フィールドはピアニストであり作曲家でもあった人物ですが、低声部の伴奏にのって高音部が夜の静寂を思わせるような優雅なメロディを歌う作品を20曲前後作り出しました。そして、このフィールドが作り出した音楽形式はショパンに強い影響を与え、彼もまた「ノクターン」と称する作品をその生涯に21曲も作り出しました。
初期の作品は「ショパンはフィールドから直接は借用はしていないが、その旋律や伴奏法をまねている」と批評されたりしていますが、時代を追うにつれて、フィールドの作品にはない劇的な性格や情熱が付け加えられて、より多様な性格を持った作品群に変貌していきます。
そして、、今日では創始者のフィールドの作品はほとんど忘れ去られ、ノクターンと言えばショパンの専売特許のようになっています。
後年、ショパン研究家として著名なハネカーは次のように述べています。
「ショパンはフィールドの創案になる形式をいっそう高め、それに劇的息吹と情熱と、そして壮大さを加えた。」
まさにその通りです。
ショパン:ノクターン Op.37
この作品の成立過程は詳しく分かっていないのですが、かつてはサンドとのマジョルカ島での生活の中で作曲された言われていました。しかし、その後の研究でショパンの手紙が発見され、そこにはマジョルカ島から帰った後に書かれたことが仄めかされています。
おそらくは、マジョルカ島からフランスに帰った後に、マジョルカ島での印象などが作品に反映しているのかもしれません。
- 第1番は「郷愁」というニックネームが使われることがあります。
それは、この作品の特徴を的確に表現したものと言えます。主題は豊かな装飾音で飾られていて、まるでオペラのアリアを思わせますし、中間部もどこかコラール風の音楽です。
- 第2番はマジョルカ島への航海の途中に着想されたと言われています。
もちろん、真偽のほどは不明ですが、サンドの日記にはこの作品を想起させるような内容が記されています。
頻繁に転調が繰り返されながら肝心の主張であるト長調がほとんど現れないという不思議な感覚は、波のまにまに揺れる船の不確かさが結核に冒された己の未来への不安が重なるようです。
ショパン:ノクターン Op.48
まさにショパン円熟期のノクターンと言っていい作品です。劇的な性格を持つ第1番と叙情的な雰囲気を持つ2番との対比も鮮やかです。
- 第1番はその劇的な性格と言うことでは作品27の1番と肩を並べることが出来る作品です。もっとも、この作品の優れた点はその劇的な性格だけではなく、同時に気品あふれる情緒にも満たされているところにあります。
これぞまさしく「ショパン!!」と言えるでしょう。
暗い表情で音楽は始まるのですが、それがやがてコラール風に盛り上がっていきます。そして、その頂点で最初の主題が復帰して、それが大きな高揚を示していきます。まさに、短い音楽劇とも言うべき作品です。
- 第2番は対照的に叙情的な雰囲気に満たされています。
とりわけ、序奏を伴った最初の主題はレクイエム的であり、それはまさに「涙をたたえた甘さ」とも言うべきものです。
そして、この主題が繰り返された後に、全然雰囲気の異なる中間部が登場します。ショパンは弟子にこの部分はレチタティーヴォのように演奏しろと言ったそうです。
12才ではなくて、16才の時の作品だったようです
この作品は長きにわたってロッシーニの「神童」ぶりをあらわす作品だと考えられていました。
なぜならば、1930年代に発見された筆写譜のタイトルとして「12歳のジョアキーノ・ロッシーニ氏が1804年にラヴェンナで作曲した六つのソナタ作品」と記されていたからです。さらに、そのファースト・ヴァイオリンのパート譜の余白にロッシーニの自筆で次のように記されてもいました。
この六つのひどいソナタは、私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に、パトロンでもあった友人アゴスティーノ・トリオッシの別荘で作曲したものである。すべては3日間で作曲・写譜され、コントラバッソのトリオッシ、第一ヴィオリーノのモリーニ、その弟のヴィオロンチェッロ、そして私自身の第二ヴィオリーノによって実にへたくそに演奏されたが、実を言えばその中で私が一番まともであった。G.ロッシーニ
この二つの書き込みによって、この6つのソナタはロッシーニが12才の時に僅か3日間で書いたものだと信じられてきました。
音楽史上、これに匹敵する早熟の天才といえばモーツァルトくらいしか思い浮かばないのですが、その作品の完成度と、その恵まれない生育環境を考えれば、それをも上回る部分もあるのです。
しかし、最近の研究によって、この「12才説」は、ロッシーニ自身が自らの「神童」ぶりを宣伝するための「捏造」であったことが明らかになってきました。
それは、この筆写譜のタイトルにつけられている「1804」という数字は、ロッシーニ自身によって入念に書き換えられていることが分かってきたからです。さらに、このパート譜の用紙の透かしを詳しく調べてみると、彼が1808年から1812年にかけて使っていたものと一致することも明らかになりました。
つまりは、ロッシーニがこのパート譜のタイトルに記されていた「1808」という数字を入念に「1804」に書き換え、さらにはご丁寧に「この六つのひどいソナタは、私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に・・・」という書き込みを追加したようなのです。
さらに、この書き換えの時に、筆写譜を作成した人がつけた「Quartetto/i(四重奏曲)」を「Sonata/e(ソナタ)」に書き換えていることも明らかになっています。
おそらく、これも「偽装」をよりばれにくくするためだったと思われますから、実に念の入った話です。
ただし、これが16才の作品になったとしても、さすがにモーツァルトに肩を並べることは出来ませんが、それでも圧倒的に早熟な天才であったことには変わりがありません。
そして、モーツァルトが真に偉大であったのは、早熟の「神童」であったからではなくて、その後の人生において誰もが想像できないほどに遠くへ歩いていったからでした。
ロッシーニもまた、二十歳過ぎれば只の人になることはなく、オペラ・ブッファの世界において、あのベートーベンでさえ羨むほどの大きな成功を収めたのです。
そして、そう言うオペラの世界で成功をおさめる才能はすでにこの6つのソナタの中にあらわれていることは誰の耳にも明らかです。
確かに構成的に薄くなる場面は多々あるのですが、それでもオペラのアリアを思わせるような劇的な展開と美しい旋律にあふれていることは疑いようがありません。
ロッシーニは「四重奏曲」という筆写者のタイトルが気に入らなかったので「ソナタ」と書き換えているのですが、この作品はいわゆるソナタ形式という堅苦しいスタイルではなくて、一つの主題を提示してそれを自由に展開させるというスタイルをとっています。ですから、どちらかといえば気楽なディヴェルティメント的な雰囲気にあふれています。
専門的にみれば、サンマルティーニやボッケリーニなどのイタリア室内楽の系譜に連なる作品なんだそうですが、どちらにしても若きロッシーニの中にあふれていた瑞々しい叙情性が聞くものを引きつけます。
そう言えば、誰かが言っていました。
日曜日の朝に焼きたてのクロワッサンと濃いめの珈琲で朝食をとるとき、そこに流れる音楽としてこれほど相応しいものはありません。
「素敵な音楽ね、なんて言う曲なの?」
「ロッシーニの弦楽のためのソナタ、第5番かな」
「素敵な音楽って、いつもつまらない名前がついているのね」
そう言えば、オペラの世界から引退したロッシーニは、その最晩年に再び器楽の世界に戻ってくるのですが、その最後に書いた作品のタイトルが「老いの過ち」でした。
もしかしたら、その作品を書きながら、若き日の愚かな行いを思い出していたのかもしれません。
ブラームスの「田園交響曲」
ブラームスが最初の交響曲を作曲するのに20年以上も時間を費やしたのは有名な話ですが、それに続く第2番の交響曲はその一年後、実質的には3ヶ月あまりで完成したと言われています。ブラームスにとってベートーベンの影がいかに大きかったかをこれまた物語るエピソードです。
第2番はブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもあります。それは明るいのびやかな雰囲気がベートーベンの6番を思わせるものがあるかです。
ただ、この作品はこれ単独で聞くとあまり違和感を感じないでのですが、同時代の他の作品と聞き比べるとかなり古めかしい装いをまとっています。この10年後にはマーラーが登場して第1番の交響曲を発表することを考えると、ブラームスの古典派回帰の思いが伝わってきます。
オケの編成を見ても昔ながらの二管編成ですから、マーラーとの隔絶ぶりはハッキリしています。
とは言え、最終楽章の圧倒的なフィナーレを聞くと、ちらりと後期ロマン派の顔がのぞいているように思うのは私だけでしょうか。
- 第1楽章 Allegro non troppo:冒頭に低弦が奏する音型が全曲を統一する基本動機となっている。静かに消えゆくコーダは「沈みゆく太陽が崇高でしかも真剣な光を投げかける楽しい風景」と表現されることもあります。
- 第2楽章 Adagio non troppo - L'istesso tempo,ma grazioso:冒頭の物憂げなチェロの歌がこの楽章を特徴づけています。
- 第3楽章 Allegretto grazioso (Quasi andantino) - Presto ma non assai - Tempo I:間奏曲とスケルツォが合体したような構成になっています。
- 第4楽章 Allegro con spirito:驀進するコーダに向けて音楽が盛り上がっていきます。もうブラームスを退屈男とは言わせない!と言う雰囲気です。
12才ではなくて、16才の時の作品だったようです
この作品は長きにわたってロッシーニの「神童」ぶりをあらわす作品だと考えられていました。
なぜならば、1930年代に発見された筆写譜のタイトルとして「12歳のジョアキーノ・ロッシーニ氏が1804年にラヴェンナで作曲した六つのソナタ作品」と記されていたからです。さらに、そのファースト・ヴァイオリンのパート譜の余白にロッシーニの自筆で次のように記されてもいました。
この六つのひどいソナタは、私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に、パトロンでもあった友人アゴスティーノ・トリオッシの別荘で作曲したものである。すべては3日間で作曲・写譜され、コントラバッソのトリオッシ、第一ヴィオリーノのモリーニ、その弟のヴィオロンチェッロ、そして私自身の第二ヴィオリーノによって実にへたくそに演奏されたが、実を言えばその中で私が一番まともであった。G.ロッシーニ
この二つの書き込みによって、この6つのソナタはロッシーニが12才の時に僅か3日間で書いたものだと信じられてきました。
音楽史上、これに匹敵する早熟の天才といえばモーツァルトくらいしか思い浮かばないのですが、その作品の完成度と、その恵まれない生育環境を考えれば、それをも上回る部分もあるのです。
しかし、最近の研究によって、この「12才説」は、ロッシーニ自身が自らの「神童」ぶりを宣伝するための「捏造」であったことが明らかになってきました。
それは、この筆写譜のタイトルにつけられている「1804」という数字は、ロッシーニ自身によって入念に書き換えられていることが分かってきたからです。さらに、このパート譜の用紙の透かしを詳しく調べてみると、彼が1808年から1812年にかけて使っていたものと一致することも明らかになりました。
つまりは、ロッシーニがこのパート譜のタイトルに記されていた「1808」という数字を入念に「1804」に書き換え、さらにはご丁寧に「この六つのひどいソナタは、私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に・・・」という書き込みを追加したようなのです。
さらに、この書き換えの時に、筆写譜を作成した人がつけた「Quartetto/i(四重奏曲)」を「Sonata/e(ソナタ)」に書き換えていることも明らかになっています。
おそらく、これも「偽装」をよりばれにくくするためだったと思われますから、実に念の入った話です。
ただし、これが16才の作品になったとしても、さすがにモーツァルトに肩を並べることは出来ませんが、それでも圧倒的に早熟な天才であったことには変わりがありません。
そして、モーツァルトが真に偉大であったのは、早熟の「神童」であったからではなくて、その後の人生において誰もが想像できないほどに遠くへ歩いていったからでした。
ロッシーニもまた、二十歳過ぎれば只の人になることはなく、オペラ・ブッファの世界において、あのベートーベンでさえ羨むほどの大きな成功を収めたのです。
そして、そう言うオペラの世界で成功をおさめる才能はすでにこの6つのソナタの中にあらわれていることは誰の耳にも明らかです。
確かに構成的に薄くなる場面は多々あるのですが、それでもオペラのアリアを思わせるような劇的な展開と美しい旋律にあふれていることは疑いようがありません。
ロッシーニは「四重奏曲」という筆写者のタイトルが気に入らなかったので「ソナタ」と書き換えているのですが、この作品はいわゆるソナタ形式という堅苦しいスタイルではなくて、一つの主題を提示してそれを自由に展開させるというスタイルをとっています。ですから、どちらかといえば気楽なディヴェルティメント的な雰囲気にあふれています。
専門的にみれば、サンマルティーニやボッケリーニなどのイタリア室内楽の系譜に連なる作品なんだそうですが、どちらにしても若きロッシーニの中にあふれていた瑞々しい叙情性が聞くものを引きつけます。
そう言えば、誰かが言っていました。
日曜日の朝に焼きたてのクロワッサンと濃いめの珈琲で朝食をとるとき、そこに流れる音楽としてこれほど相応しいものはありません。
「素敵な音楽ね、なんて言う曲なの?」
「ロッシーニの弦楽のためのソナタ、第5番かな」
「素敵な音楽って、いつもつまらない名前がついているのね」
そう言えば、オペラの世界から引退したロッシーニは、その最晩年に再び器楽の世界に戻ってくるのですが、その最後に書いた作品のタイトルが「老いの過ち」でした。
もしかしたら、その作品を書きながら、若き日の愚かな行いを思い出していたのかもしれません。
ベートーヴェンの影を乗り越えて
ブラームスにとって交響曲を作曲するということは、ベートーヴェンの影を乗り越えることを意味していました。それだけに、この第1番の完成までには大変な時間を要しています。
彼がこの作品に着手してから完成までに要した20年の歳月は、言葉を変えればベートーヴェンの影がいかに大きかったかを示しています。そうして完成したこの第1交響曲は、古典的なたたずまいをみせながら、その内容においては疑いもなく新しい時代の音楽となっています。
この交響曲は、初演のときから第4楽章のテーマが、ベートーヴェンの第9と似通っていることが指摘されていました。それに対して、ブラームスは、「そんなことは、聞けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったようです。
確かにこの作品には色濃くベートーヴェンの姿が影を落としています。最終楽章の音楽の流れなんかも第9とそっくりです。姿・形も古典派の交響曲によく似ています。
しかし、ここに聞ける音楽は疑いもなくロマン派の音楽そのものです。
彼がここで問題にしているのは一人の人間です。人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題です。
音楽はもはや神をたたるものでなく、人類の偉大さをたたえるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲です。
しかし、この作品好き嫌いが多いようですね。
嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った、力みかえったような音楽が鬱陶しく感じるようです。
好きだと言う人は、この同じ音楽に、青春と言うものがもつ、ある種思いつめたような緊張感に魅力を感じるようです。
私は、若いときは大好きでした。
そして、もはや若いとはいえなくなった昨今は、正直言って少し鬱陶しく感じてきています。(^^;;
かつて、吉田秀和氏が、力みかえった青春の澱のようなものを感じると書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。
それだけ年をとったということでしょうか。
なんだか、リトマス試験紙みたいな音楽です。
モーツァルトの弦楽四重奏曲の簡単なスケッチ
私にはモーツァルトの弦楽四重奏曲を、その一つ一つについて詳細に論じる能力はありませんので、(^^;、ここではその全体像のスケッチでお茶を濁すことにしたいと思います。
モーツァルトの四重奏曲は大きく分けて二つのグループに分かれるとアインシュタインは述べています。
まず、前半のグループに属するのは、1772年から73年にかけて作曲された15の作品です。アインシュタインはこれをさらに3つのグループに分けています。
前半のグループ
第1グループ:K136~K138
草稿には「ディヴェルティメント」と記されています。しかし、ディヴェルティメントには二つのメヌエットが必要なのに、これらの作品は一つのメヌエットも持っていません。ですから、この作品はディヴェルティメントと言うよりは、管楽器を欠いたシンフォニーのような作品となっています。
この時代の特徴としてそのあたりの名称はあまり確定的なものではなく、四重奏曲という分野もそれほどはっきりとした独立性を持ったものではなかったようです。現在ではこの3つの作品は四重奏曲の中に分類しないのが一般的ですが、アインシュタインはこれをモーツァルトの最初期の四重奏曲として分類しています。
第2グループ:K155~K160
ミラノへの旅行の途上か、ミラノで滞在中に作曲されたものなので「ミラノ四重奏曲」と呼ばれることがある作品です。そして、ディヴェルティメントと題された前の3つの作品と比べると、これらははるかに室内学的な緻密さにあふれた作品となっています。
アインシュタインは「モーツァルトは半年の間に四重奏曲作曲家として途方もない進歩をしたと言わなくてはならない」と述べています。
そして、これらの作品に後年の偉大な弦楽四重奏曲への前触れがあることを指摘しながら、「春が単に夏の前触れであるばかりでなく、それ自体としてはなはだ魅力的な季節であるように」これらの作品にも若きモーツァルトのかけがえのない魅力があふれている事を指摘しています。
第3グループ:K168~K173
1773年の二度目のウィーン滞在時に作曲されたために「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる作品です。このウィーン滞在における最大の出来事は、ハイドンとの出会いであり、とりわけ作品番号17番と20番のそれぞれ6つの四重奏曲を知ったことです。
このハイドンとの出会いは天才と言われるモーツァルトにも多大な感銘を与え、同時に彼を圧倒したと言われています。それ故に、この時期に生み出された6つの四重奏曲は、その様なハイドンへの畏怖に圧倒されてモーツァルト本来の持ち味が十分に発揮されていない、どこか中途半端な作品になってしまっています。
アインシュタインもまた「モーツァルトは感銘に圧倒される。・・・しかし、それを完全に自分のものとすることが出来ない。模倣は明白である。」と言い切っています。
しかし、今までの「歌の国」であるイタリア的な作風から完全に脱却して、ウィーン的な「器楽の世界」へ転換していく大きな節目に立つ作品と言うことで、それはそれなりに大きな意義を持ったものだといえます。
さて、このジャンルの作品の創作はこの後に10年にもわたる空白期間を持つことになります。アインシュタインはこの空白期間を隔てて、これ以後に生み出された作品を後半のグループに分類しています。そして、この分類の仕方は今日では一般的なものとして是認されているようで、後期弦楽四重奏曲と言うときはこのグループの作品のことを言います。
そして、この後期の作品もまた3つのグループに分かれます。
後半のグループ
第1グループ:ハイドンセット
・弦楽四重奏曲第14番 ト長調 K.387
・弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K.421
・弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調 K.428
・弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458
・弦楽四重奏曲第18番 イ長調 K.464
・弦楽四重奏曲第19番「不協和音」 ハ長調 K.465
弦楽四重奏曲のことを「四人の賢者による対話」といったのだ誰だったでしょうか?しかし、最初から4つの楽器が対等の立場で繊細で緻密な対話を展開していたわけではありません。
ヴァイオリンが主導的な役割を果たし、チェロやヴィオラが通奏低音のような役割しかはたしていなかったこの形式の作品をその様な高みへと初めて引き上げたのはハイドンでした。しかし、その道のりはハイドンといえども決して簡単なものではなかったようです。
彼が1772年の発表した「太陽四重奏曲」は、若きモーツァルトを圧倒し、モーツァルトにK155~K160にいたるウィーン四重奏曲を書かせる動機となりました。しかし、それでさえも「4人の賢者による対話」と呼ぶには未だ不十分なスタイルのものでした。それ故に、それら一連の四重奏曲を発表した後には長い沈黙が必要でした。そして、それに呼応するようにモーツァルトもまたこのジャンルにおいては沈黙することになります。
しかし、ハイドンは9年間の沈黙を破って1781年に「ロシア四重奏曲」を発表します。この作品はハイドン自身が「全く新しい特別な方法」で作曲されたと自負しているように、まさにこの作品において弦楽四重奏曲は「4人の賢者による対話」と呼ぶに相応しいスタイルを獲得することになります。
そして、この作品との出会いはモーツァルトにとって「芸術家しての生涯における最も深い感銘の一つ(アインシュタイン)」となりました。
しかし10年の歳月はモーツァルトを完全に成熟した作曲家へと成長させており、このような時代を画するような作品に出会って深い感銘を受けても、今度はもはや圧倒されることはありませんでした。
以前のウィーン四重奏曲のようにハイドンの模倣として終わることはなく、ハイドンの手法をしっかりと自分の中で消化した上で、モーツァルト独自の世界を展開することになります。そうして生み出された6曲からなる弦楽四重奏曲が「ハイドンセット」です。
この6曲からなる弦楽四重奏曲は注文を受けて作曲されたものではなく、ハイドンの偉大な作品に接したモーツァルトがやむにやまれぬ衝動に突き動かされるようにして作曲されたものです。そして、ハイドンが提示した<全く新しい特別な方法>を自らの中に完全に消化するためには、天才モーツァルトといえども大変な苦労を強いられることになります。
オリジナルの楽譜といえども、まるで清書をしたかのように推敲の後も残さないモーツァルトが、破棄された数々の書き始めと、いたるところに改訂と削除の後を残して2年もの歳月をかけて完成させたのがハイドンセットです。モーツァルトの天才を知るものにとっては、献辞の中で述べている「長い、骨のおれる努力の結晶」と述べていることのなんという重み!!
しかし、そうして出来上がった作品には、その様な「労苦」の後を微塵も感じさせません。
本当のエンターテナーというものは、楽屋裏での汗と涙を決して舞台で感じさせずに、いとも易々と演じてみせるものですが、ここでのモーツァルトはまさにその様な超一流のエンターテナーを彷彿とさせるものがあります。
ハイドンを招いて行われた初めての演奏会を聞いた父レオポルドは、「なるほど、少し軽くなったが、すばらしいできだ」と述べているのです。
出来上がった作品からはいっさいの労苦と汗はきれいに洗い流している、そこにこそモーツァルトの天才が発揮されています。
第2グループ:ホフマイスター四重奏曲
・弦楽四重奏曲 第20番 ニ長調 K499
この作品の成立過程は詳しいことは分かっていないのですが、おそらくは友人であり、出版業者であるホフマイスターに対する債務返済の意味合いで作曲されたものといわれています。しかし、その様な動機にもかかわらず、また、たった1曲の単独の作品でありながら、アインシュタインは「孤独で立つに値するものである」と讃辞を送っています。そして、「この四重奏曲は厳粛であると同時に軽く、魅惑的な音響の多くの転換においてシューベルトの前触れとなっている。」という言葉にこの作品の全てがつまっているように思います。
第3グループ:プロイセン四重奏曲
・弦楽4重奏曲第21番 ニ長調 K.575
・弦楽4重奏曲第22番 変ロ長調 K.589
・弦楽4重奏曲第23番 ヘ長調 K.590
プロイセンの国王、フリードリヒからの依頼で作曲されたために「プロイセン四重奏曲」とよばれています。これはよく指摘されることですが、依頼主であるフリードリヒは素人として卓越したチェロ奏者であったために、この作品にはその様な王の腕前が存分に発揮できるようにチェロがまるで独奏楽器であるかのように活躍します。第2ヴァイオリンとヴィオラは後景へと退き、それらをバックにしてチェロが思う存分に活躍するように書かれています。
その意味で、モーツァルトの最晩年の作品であるにもかかわらず、室内楽としての緻密さや統一感という点においてハイドンセットに一歩譲ると言わざるを得ません。
しかし、それでもなお、ある意味では機会音楽のような制約を受けた作品であるにもかかわらず、そして、簡潔な構成であるにもかかわらず、その至るところから繊細な感情の揺らめきを感じ取ることができるところに、最晩年のモーツァルトの特徴をうかがうことが出来ます。